(世界史)ギリシアのまとめ エーゲ文明~アレクサンドロス大王(誰でも流れが分かる)
皆さんこんにちはルリアゲハです。世界史を勉強していると出てくる古代ギリシア世界。あなたは古代ギリシア世界がどんな流れだったか説明できるでしょうか?もしかすると
「ずいぶん前に勉強したからほとんど覚えていない…」
という人もいるかもしれません。そんなあなたも大丈夫です。
この記事を読めば
- 古代ギリシアの簡単な流れ
- エーゲ文明について
- 2つのポリス アテネとスパルタ
- ギリシア世界の転機 ペルシア戦争
- アレクサンドロス大王
- 分裂→ローマ帝国の支配下になるまで
が理解できるようになります。
古代ギリシアとは
世界史で勉強する古代ギリシアは地中海を中心として発展しました。
ローマ帝国とともにヨーロッパ文化のルーツで、
- ギリシャ神話
- プラトンやソクラテス、アリストテレスなどの哲学
- ミロのヴィーナスなどの彫刻
- パルテノン神殿などのギリシア建築
などで有名です。さらに、古代ギリシアでは民主主義という考えを世界で初めて生み出しました。
エーゲ海からギリシア本土へ エーゲ文明
エーゲ文明は東地中海に生まれた青銅器文明のことです。
エーゲ海から名付けられたエーゲ文明は2種類に分けられます。
- 前半のクレタ文明
- 後半のミケーネ文明
の2つですね。クレタ文明とミケーネ文明にはどんな違いがあるのでしょうか?それぞれ見ていきましょう。
海に囲まれて平和な文明 クレタ文明
クレタ文明は前2000年頃にできた文明です。名前の由来ともなった、クレタ島で栄えました。クレタ島の場所は下の地図をご覧ください。
クレタ文明で覚えておきたいことは
- 明るく解放的な文明
- クノッソス宮殿
の二つです。
一つ目の明るく開放的な文明というのは、どういうことなのでしょうか?実はクレタ文明にはクノッソス宮殿のような宮殿はあったのですが、城壁はありませんでした。また、当時の壁画には海の生き物や人々が描かれています。だから、明るくて開放的なのです。
二つ目のクノッソス宮殿について見ていきましょう。
Dimitri Devogeleer, CC 表示 3.0,
http:// https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=43021214
による
クノッソス宮殿はクレタ文明最大の遺跡で、エヴァンスによって発見されました。ちなみに、クノッソス宮殿はギリシャ神話に登場する伝説上の建築物でした。考古学者だったイギリス人のエヴァンスは
「クノッソス宮殿は実在する!」
と信じて、クレタ島で発掘を続けました。発掘を続けると、本当に見つかったので驚きですよね。
また、クレタ文明には線文字Aという未解読の文字があります。
ギリシア本土の戦闘的な文明 ミケーネ文明
エーゲ文明の後半に栄えたのはミケーネ文明です。ミケーネ文明はクレタ文明と対称的な文明と言えます。なので、陸の方(ギリシア本土)にあって、戦闘的な文明ですね。
彼らが戦闘的なのを表すのは、城塞などの鉄壁の守りです。
ミケーネ文明では王様がいて、役人たちが人々から貢ぎ物を集めていました(貢納王政)。貢納王政をしていたということは、当時使われた線文字Bという文字を解読して明らかになったことです。
ちなみに、ミケーネ文明はドイツのシュリーマンによって発見されました。
謎の時代 暗黒時代
繁栄していたミケーネ文明は、突然衰退してしまいます。なぜ衰退したのかと思ったかもしれません。しかし、なぜなのかは未だ不明です。
そして、実態が全く分かっていない暗黒時代が400年間続きます。
都市国家 ポリスの時代
ポリスの特徴
暗黒時代が終わると、ギリシャにはたくさんのポリス(都市国家)ができます。ポリスはアクロポリスと呼ばれる城山を中心に作られました。下の写真で言うと、神殿っぽい建物が建った所ですね。
Harrieta171 - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=588884
による
そして、ポリスにはアゴラと呼ばれる広場があって、アゴラでは市場が開かれたり、集会をしたりしました。
古代ギリシア人は小さな山の周辺に小さな国を作って住んでいたのです。さらに、地中海各地に植民市という都市を作りました。
古代ギリシアの人々
古代ギリシアの人々には市民と奴隷がいました。さらに市民は、貴族と平民に分けられます。少しややこしいですね。ここまでの話をまとめると、下の図のようになります。
アテネとスパルタ
ギリシアのポリスで有名なのはアテネとスパルタです。超大事なので、それぞれの特徴を見ていきましょう。
市民全員による民主制が実現 アテネ
最初に紹介するのはイオニア人のポリス、アテネです。アテネの位置は下の地図をご覧ください。
アテネでは、段階的に
市民全員による直接民主制が達成されました。ここで言う”市民”はギリシア人の成人男性のことです。なので、女性や奴隷、異民族には参政権はありませんでした。今とはスタイルが違う民主制ですね。
そんなアテネも最初は貴族たちだけが政治をしていました。しかし、最終的には平民も政治に参加できるようになります。
市民全員による直接民主制が達成されるまでを、簡単にまとめると、下のようになります。
厳しい軍国主義で統治 スパルタ
一方、スパルタでは、少数の市民が大多数の被征服民を支配していました。被征服民は、農業をするヘイロータイと商工業をするペリオイコイに分けられます。図で表すとこんな感じですね。
少数の市民たちはどうやってポリスをまとめたのでしょうか?大多数の被征服民に反乱を起こされたら大変ですよね。ポリスをまとめたのは、徹底した軍国主義です。
市民たちは徹底した軍国主義によって、被征服民に
「市民たちって、実際大したことないな」
と思われることを防ぎました。スパルタの厳しい政策は、厳しい教育を表す「スパルタ教育」という言葉を生んでいます。
ギリシア世界が団結 ペルシア戦争
そうして、ギリシア世界にあるピンチが訪れます。どんなピンチなのでしょうか?ピンチというのは、西の大国アケメネス朝ペルシアとの戦争(ペルシア戦争)です。きっかけは小アジア(現在のトルコ)で起こったギリシア人の反乱でした。その反乱にアテネを中心とした諸ポリスが支援しました。こうして、
のペルシア戦争が始まります。
- マラトンの戦い
- サラミスの海戦
- プラタイアの戦い
を連勝してギリシアが勝利しました。
ペルシア戦争後
ペルシア戦争後起こったことは
- 無産市民の発言力が高まる
- デロス同盟とペロポネソス同盟ができた
- ペロポネソス戦争が起こった
の三つです。それぞれ一つずつ見ていきましょう。
一つ目の無産市民の発言力が高まったというのは、ペルシア戦争で活躍したからです。ちなみに無産市民というのは、武器を買う余裕がないほど貧乏な市民のことですよ。そんな無産市民はペルシア戦争の二回戦、サラミスの海戦で活躍します。いったいどうやって活躍したのでしょうか?
無産市民は三段櫂船の漕ぎ手として活躍しました。三段櫂船というのは三段に分かれてオールを漕いで動かす船です。
CC 表示-継承 3.0,https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=250720
そうして、全速力で進む船を敵の船に突進させて戦いました。これなら武器を持ってなくても戦争に参加できますね。
戦争で活躍した無産市民は発言力が増して、政治に参加できるようになりました。
二つ目のデロス同盟とペロポネソス同盟の誕生は、アテネが次の戦争に備えたことから始まりました。アテネはギリシアの外の国と戦争になったときのために、周辺のポリスと団結しました。
これがアテネを中心としてデロス同盟ですね。
一方、
「デロス同盟なんて気に食わない」
と思うポリスたちもいました。スパルタを中心としたポリスたちのことです。彼らはデロス同盟に対抗して、ペロポネソス同盟を結成しました。
デロス同盟とペロポネソス同盟の対立は戦争へ発展しました。三つ目のペロポネソス戦争のことですね。そうして、長い間ギリシア人同士で争っていたので、諸ポリスは衰退していきました。
アレクサンドロス大王の大帝国
そんな衰退したギリシア世界に、マケドニアというギリシア人の一派が現れます。マケドニアというのはギリシア人なのにポリスを作らない一派でした。いわば、ちょっと仲間外れになっていたギリシア人たちですね。
しかし、フィリッポス2世とアレクサンドロス大王がマケドニアを大きく発展させていきます。
フィリッポス2世はペロポネソス戦争で混乱するアテネとテーベをカイロネイアの戦いで破りました。そして、全ギリシアのポリス(スパルタ以外)をコリントス同盟でまとめます。フィリッポス2世はコリントス同盟でギリシア世界を支配したのです。
フィリッポス2世の子であるアレクサンドロス大王。彼は東方遠征をして大帝国を造ったことで有名ですね。ギリシアの北部マケドニアから軍を進め、
- イッソスの戦い
- アルベラの戦い
を勝利していきました。そして、ギリシアからエジプトや中央アジア、インダス川のあたりまでを支配します。アレクサンドロス大王の帝国完成ですね。アレクサンドロス大王は
- 征服地に複数のアレクサンドリアという都市を築く
- 東西の文化を融合させる(ヘレニズム文化)
などを行います。
しかし、マケドニアへ帰る途中にアレクサンドロス大王は急死します。彼は自分の後継者を誰にするか言わなかったので、争いが起きました。争いに勝った後継者たちが3つの国(アンティゴノス朝マケドニア、セレウコス朝シリア、プトレマイオス朝エジプト)を建国します。アレクサンドロス大王の帝国は三つに分裂したということですね。
ついに、ギリシア世界は前2世紀にはローマ帝国に併合されました。
まとめ
いかがでしたでしょうか。今回は世界史で習う古代ギリシアについて解説しました。今回の内容をまとめると
- エーゲ文明は、前半はクレタ文明、後半はミケーネ文明
- 400年間の暗黒時代の後、ポリス(都市国家)の時代が始まる
- アテネでは段階的に直接民主制になる
- スパルタでは少数の市民が大多数の人々を軍国主義で支配していた
- ペルシア戦争のためにポリス同士が協力し、何とか勝利
- ペルシア戦争後、デロス同盟(アテネ中心)とペロポネソス同盟(スパルタ中心)の戦争が起こる→ギリシア衰退
- マケドニアのアレクサンドロス大王はギリシア世界も含めたインドまでの大帝国を造る
- アレクサンドロス大王死後、帝国は3つに分裂
- ギリシア世界は前2世紀にはローマ帝国の支配下に
という感じです。
今回の内容をマスターしてテストで高得点を獲得し、自由な人生の実現を目指しましょう。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
(完全版)世界史の明が5分で分かる(誰でも簡単)
皆さんこんにちはルリアゲハです。世界史で中国史を勉強していると出てくる明という王朝。
「どんな王朝だったっけ?」
という感じで記憶にない方もいるかもしれません。
そんなあなたに質問です。明はどんな政治体制で、どんな流れでしたか?
思い出せないという人も大丈夫です。
この記事を読めば
- 明の成立から滅亡までの流れ
- 政治の特徴
- 最盛期の永楽帝
- 明のピンチ 北虜南倭について
- なぜ明は滅亡したのか
について分かります。
明王朝とは
明王朝は 元王朝の次に中国を支配する王朝です。紅巾の乱で頭角を現した朱元璋によって建国されます。ちなみに紅巾の乱というのは、元朝末期に起こった乱ですね。
明王朝は
- 漢民族の王朝
- 管理的な統治
でした。なので、明王朝はモンゴル人の王朝、元や自由な統治をした漢民族の王朝、宋とは全く毛色の違う王朝ですね。
ちなみに、明の都は最初は南京、永楽帝以降は北京です。
洪武帝の管理的な統治
明を建国した朱元璋は洪武帝として即位します。なので、
洪武帝=朱元璋
ですね。
洪武帝は元々貧しい農民でした。だから貧しい人々にも優しい統治をしたのかと思いきや…実際は真逆だったのです。そう、彼の統治は超管理的でした。
具体的には
- 中書省を廃止し、六部を皇帝の直属に
- 租税台帳(賦役黄冊)と土地台帳(魚鱗図冊)を作る
- 民間貿易を禁止(海禁)
- 里甲制で農民をまとめる
- 農民に六諭を唱えさせる
- 一世一元の制(一人の皇帝の治世には一つの元号)
という感じです。一つずつ詳しく見ていきましょう。
中書省を廃止し、六部を皇帝の直属に
一つ目の政策は中書省を廃止して、六部(りくぶ)を皇帝の直属にすることです。
中書省というのは皇帝の命令を作る所で、六部は上からの命令に従って、仕事をする役所ですね。なので、皇帝が直接指示しなくても仕事をしてくれました。
しかし、洪武帝は代わりに命令を作ってくれる中書省を廃止し、自分で指示することにします。自分で、六部に命令して仕事をさせるので、
六部=皇帝直属
になったのです。自分で直接指示するようになったので、皇帝の自由になりましたが、皇帝の仕事は増えました。大変ですね。
租税台帳(賦役黄冊)土地台帳(魚鱗図冊)を作る
二つ目の政策は租税台帳と土地台帳を作ったことです。租税台帳の名前は賦役黄冊(ふえきこうさつ)で、土地台帳の名前は魚鱗図冊(ぎょりんずさつ)といいます。全国の膨大な数の農民を管理するために作られました。
民間貿易を禁止
さらに、洪武帝は民間貿易を禁止(=海禁)します。
なぜ海禁をしたのでしょうか?理由は国の貿易である朝貢貿易を独占して行うためです。
朝貢貿易というのは何なのか?と思ったかもしれません。朝貢貿易というのは周辺諸国が貢物を持ってきて、中国は貢物の返礼品を渡すという形の貿易です。簡単に言うと、貿易をするときに
中国>周辺諸国
という上下関係がありました。
どんな国と朝貢貿易をしていたのかというと
- 朝鮮
- 日本
- 琉球
- マラッカ王国
- 黎朝(ベトナム)
などです。
里甲制と六諭
さらに、里甲制と六諭で末端の農民まで統治しました。
「里甲制や六諭って何のこと?」
と思ったかもしれません。簡単に説明すると、里甲制は110家族で一つのグループとして税を集めさせたり、治安維持をする仕組みです。
一方、六諭は儒教を分かりやすくした6つのスローガンで農民を統治する仕組みです。
例えば、目上の人は敬おう、父母を大事にしようという感じですね。六諭をみんなで唱えさせて、国に反抗しないようにしたのです。教育と洗脳は紙一重なものですね。
最盛期 永楽帝
明の最盛期は永楽帝の治世です。ちなみに、永楽帝が即位するまでには一波乱ありました。どんな波乱だったのでしょうか?
波乱というのは、燕王(後の永楽帝)が、皇帝に対してクーデターを起こしたこと(靖難の役)です。靖難の役(せいなんのえき)では2代目皇帝、建文帝を倒すために燕王は挙兵します。結果、クーデターは成功し、燕王は永楽帝として即位しました。
永楽帝は
- 南京から北京に遷都
- 皇帝の居城、紫禁城を造営
- 内閣大学士の設置
- 5回にわたるモンゴル遠征
- 鄭和の大航海を命じる
などを行います。それでは、内閣大学士と鄭和の大航海について詳しく見ていきましょう。
内閣大学士というのは、皇帝の補佐役です。以前の中書省に代わって、皇帝の命令を出すのを手伝いました。
鄭和の大航海は、イスラーム教徒で宦官の鄭和(ていわ)に南海遠征を命じたことです。
なぜ、永楽帝は南海遠征を命じたのでしょう?答えは南海諸国(東南アジアやインド、アフリカのマリンディなど)に朝貢貿易を促すためです。明の偉大さをアピールするために、
- 数十隻の船
- 数万人の乗組員
から成る大艦隊で、5回も遠征しました。
要するに、
「俺たちの国は強いぞ!だから早く貢ぎ物を持ってきた方が良いぞ!」
とアピールしたということですね。
明のピンチ 北虜南倭
永楽帝の死後、明はあるピンチに悩まされていました。どんなピンチなのでしょうか?
もちろん北虜南倭ですね。北虜南倭というのは北からはモンゴル系民族が攻めてきて、南では倭寇という海賊が密貿易や略奪をするという状態です。
北のピンチ モンゴル系民族の侵入
まずは、北でのモンゴル系民族の侵入から見ていきましょう。モンゴル系の民族にはオイラトとタタールという民族がいました。そのオイラトが、明の皇帝、正統帝を捕虜にする事件(土木の変)が起きます。
ちなみに、~の役とか~の変、~の乱とかややこしいですが、ちゃんと違いがあります。
変は戦いを仕掛けた側が勝った時で、役は戦いという意味で、乱は戦いを仕掛けた側が負けた時に使われます。なので、オイラトが戦いを仕掛けて皇帝を捕虜にした(=勝った)ので、
土木の”変”です。
結局正統帝は帰って来られたのですが、北方の防御を固める必要がありました。そのために、明は万里の長城を改修していきます。
南のピンチ 倭寇
南の沿岸では倭寇が密貿易や略奪を繰り返していました。明では民間貿易は禁止されていましたよね。なので、”密貿易”です。
密貿易をした例として、種子島の鉄砲伝来が挙げられます。鉄砲を日本に伝えたのはポルトガル人ですよね。しかし、そのポルトガル人は中国(明)の民間船に乗っていたのです。
密貿易をしていた倭寇はついに南京まで、迫ってきました。明は倭寇を何とかするために、海禁を緩和します。
明の滅亡
14代皇帝の万歴帝の時代になると明はどんどん衰退します。衰退した要因の一つは、万歴帝は政治を全然しなかったことです。
最初のころには張居正(ちょうきょせい)とともに一条鞭法(いちじょうべんぽう)という税制を実施します。
一条鞭法というのは、税を銀で治めさせるようにした税制です。貿易で銀が広く流通するようになったので、行われました。
一条鞭法についてもっと詳しく知りたい人は(世界史)違いが説明できる 一条鞭法と地丁銀制(中国史) がおすすめです。
万歴帝が政治をしなくなって、多くの危機が訪れました。例えば、
- たび重なる戦争で財政難になる
- 官僚と宦官の対立
- 民衆への重税
- 飢饉
です。
こうした危機で、多くの反乱が起きました。特に大規模なのが、李自成の乱です。乱の中心となった李自成はついに北京を占領します。そして、明は滅亡しました。
まとめ
いかがでしたでしょうか。今回は世界史で勉強する中国の王朝、明について解説しました。
内容をまとめると
- 明は朱元璋が建国した
- 洪武帝として即位した朱元璋は管理的な統治をする
- 最盛期は3代目皇帝の永楽帝
- 北虜南倭は北から異民族、南から倭寇
- 万歴帝は張居正とともに一条鞭法を実施
- 最終的に李自成の乱がきっかけで明は滅亡
という感じです。
今回の内容をしっかり押さえて、テストで高得点を取り、自由で独立した未来を掴んでくださいね。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
(忙しい人も簡単)世界史古代インドの覚え方
皆さんこんにちはルリアゲハです。世界史を勉強していると出てくる古代インド。
「ずいぶん前に勉強したから記憶に無い」
という方もいるでしょう。そんなあなたに質問です。古代インドの王朝の順番は完璧に言えますか?それぞれどんな王朝ですか?
なにそれ?全然わからないという方も大丈夫です。
この記事を読めば
- 古代インドの特徴
- インダス文明からヴァルダナ朝までの流れ
- それぞれの王朝の政治や文化
を浅く広く復習できます。
※ちなみに、分かりやすくするため、北インドの王朝を中心に紹介しています。
- バラバラのまま共存 古代インド
- ドラヴィダ人の時代 インダス文明
- アーリア人の時代 ヴェーダ時代
- 新しい宗教の誕生 都市国家
- 初のインド統一 マウリア朝
- 東西の文化が融合 クシャーナ朝
- インドの古典文化の祖 グプタ朝
- 唐の玄奘が訪れた短命王朝 ヴァルダナ朝
- まとめ
バラバラのまま共存 古代インド
古代インドの特徴は、いろいろな民族や文化などが混在している点です。
例えば、インドの民族はドラヴィダ人とアーリア人に分けられます。ドラヴィダ人はインドに元々住んでいた民族で、アーリア人は途中で入ってきた民族ですね。
宗教もヒンドゥー教、ジャイナ教、仏教など様々です。また、この記事では詳しく触れませんが、後の時代にはイスラーム教も入ってきます。
インドでは多くの民族や習慣がバラバラのままで共存しているのです。
ドラヴィダ人の時代 インダス文明
最初に紹介するのは、インダス文明です。インダス文明といえば、
- メソポタミア文明
- エジプト文明
- 中国文明
- インダス文明
の四大文明で有名ですね。インドでできたインダス文明は前2600年頃にできます。なので、メソポタミア文明やエジプト文明よりは後の文明ですね。
インダス文明の特徴は
- 青銅器を使用
- ドラヴィダ人の文明
- 高度な計画都市
- インダス文字(未解読)を使用
という感じです。インダス文明はインダス文字が未解読なので、詳しいことはあまり分かっていません。ちなみに、インダス文字は下の写真の文字です。
World Imaging - 自ら撮影, CC 表示-継承 3.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=268919による
インダス文字が未解読なので、私たちが覚えることは少ないです。世界史を勉強している側にとっては少しうれしいですね。
主な遺跡にはモヘンジョ=ダーロやハラッパ―があります。ちなみに、遺跡の場所はよく聞かれるので、覚えた方が良いですよ。二つの遺跡の場所は下の地図をご覧ください。
しかし、インダス文明は前2000年頃には衰退していきます。
アーリア人の時代 ヴェーダ時代
インダス文明が衰退していった頃、西の方から新しい民族が入ってきます。どんな民族なのでしょうか?それはアーリア人という白い肌の民族です。
定住したアーリア人はドラヴィダ人と農業をしながら、ヴェーダという神への讃美歌集を作りました。
歌詞の書かれたヴェーダで特に有名なのは『リグ=ヴェーダ』ですね。なので、
アーリア人の時代=ヴェーダ時代
です。ヴェーダ時代は前1500年から前600年ごろまで続きました。
ヴェーダ時代の後半になると、経済・社会的身分の差が拡大しました。カースト制度の元となったヴァルナ制ですね。なぜ格差は生まれたのでしょうか?答えは農業を続けていると、収穫量の差が出てきたからです。
たくさんの農作物が採れた人たちは、農業を辞めます。そして、あまり農作物が採れなかった人たちに対して偉そうにしました。
ヴァルナ制では4つの階級があって、一番偉いのはバラモン(神官)です。
だからアーリア人の宗教=バラモン教ですね。
新しい宗教の誕生 都市国家
ヴェーダ時代が終わると、小さな国がポツポツと出来ていきました。有名なのはマガダ国やコーサラ国ですね。
都市国家分立の時代にはある問題が起こります。どんな問題なのでしょうか?それは、バラモン教で偉そうにするバラモン(神官)に対する不満です。
「俺が一番偉いんだ!」
と威張っていたバラモンに対して疑問の声が上がります。
そうして、バラモン教に反対する新しい宗教である
- 仏教
- ジャイナ教
が生まれました。
二つの宗教のうち仏教は絶対知っていると思いますが簡単に説明します。仏教はガウタマ=シッダールタ(ブッタ)が作った宗教ですね。
「正しい行いをして、この世にある多くの苦しみから解脱する」
ということをブッダは説きました。
もう一つのジャイナ教はヴァルダマーナという人が始めた宗教です。不殺傷や無所有という厳しい戒律を徹底する宗教ですね。ジャイナ教は聞いたことが無いという人もいると思います。でも、ジャイナ教は
- ヴァルダマーナが始めた
- 厳しい戒律を守る宗教
ということは覚えておきましょう。
一方、批判されまくったバラモン教はある改革をしました。改革というのは、ウパニシャッド哲学を生み出したことです。ウパニシャッド哲学は、偉そうになったバラモンを内部から変えるために生まれました。どんな内容か説明すると長くなるので、また別の記事で解説します。
初のインド統一 マウリア朝
ついにバラバラの国だったインドは一つになります。
なぜインドは一つになったのでしょうか?答えはアレクサンドロス大王と対抗するためです。アレクサンドロス大王はギリシアのマケドニアからインドのすぐ側までの大帝国を作りました。インドの人たちにとっては大ピンチですね。
「このままではアレクサンドロス大王に支配される…」
と危機感を抱いたインドの人々は統一国家を作ろうとします。
最終的にインドを統一したのはチャンドラグプタという人です。そうして、初めての統一王朝マウリア朝が誕生しました。
マウリア朝は3代目のアショーカ王が、仏教で国をまとめたことで有名ですね。主な仏教に関する政策として
- 仏教の法(ダルマ)を石碑に刻んで各地に置く
- セイロン島(現在のスリランカ)へ仏教を布教
- 仏典の編纂(仏典結集)を行う
などが挙げられます。
しかし、アショーカ王の死後、財政難やバラモンの反発により、マウリア朝は衰退していきました。
東西の文化が融合 クシャーナ朝
衰退したクシャーナ朝に代わってできたのはクシャーナ朝です。クシャーナ朝はシルクロードを使った陸上の東西交易で発展しました。
クシャーナ朝の最盛期はカニシカ王の時代ですね。
クシャーナ朝の文化として
- ガンダーラ美術
- 大乗仏教
が挙げられます。ガンダーラ美術は東西交易で入ってきた、ギリシアやペルシア、中国の文化から生まれました。ガンダーラ美術は下の写真のようなヒダのある服が特徴です。
そして、仏教も中国や日本に広まった大乗仏教と東南アジアに広まった上座部仏教に分分かれました。
海上交易で発展 サータヴァーハナ朝
クシャーナ朝とほぼ同時期にできたのがサータヴァーハナ朝です。インドの南の方にできたサータヴァーハナ朝は海上交易で発展しました。
インドの南の方にはインド洋がありますよね。
どんな国と交易したのかというと、ローマ帝国と中国の後漢です。
ローマ帝国=ヨーロッパ 後漢=東アジア
なので、それぞれ東と西の大国ですね。中間地点にあったサータヴァーハナ朝は、中継貿易をしました。
マウリア朝とサータヴァーハナ朝の説明をまとめると
- どちらも東西の中継地点として発展した
- マウリア朝はシルクロードを利用した陸上交易
- サータヴァーハナ朝はインド洋での海上交易
です。
インドの古典文化の祖 グプタ朝
クシャーナ朝が滅亡した後、グプタ朝という王朝ができました。グプタ朝はチャンドラグプタ1世が建国します。グプタ朝を一言で表すと多くのインド古典文化が生まれた王朝です。
例えば
- ヒンドゥー教
- サンスクリット文学
- グプタ様式の寺院や仏像
- 数学や天文学
などですね。インドの古典文化のうちどれか一つは知っているかもしれません。それぐらい後世に大きな影響を与えたものばかりです。
得点アップを狙うあなたにもう一人覚えてもらいたい王様がいます。それはグプタ朝の最盛期の王チャンドラグプタ2世です。
繫栄したグプタ朝でしたが、異民族によって滅亡しました。
唐の玄奘が訪れた短命王朝 ヴァルダナ朝
グプタ朝の後にできたのはヴァルダナ朝です。ヴァルダナ朝の王はハルシャ王だけなので一代限りの短命王朝ですね。なので、ヴァルダナ朝はあまり覚えることはありません。
ただ、ヴァルダナ朝で覚えておきたいのは、唐の玄奘(げんじょう)が訪れたということです。玄奘は、仏典を求めて仏教の本場インドに来ました。そして、ハルシャ王の支援を受けて、ナーランダー僧院で仏教を学びます。ナーランダー僧院は、さっき紹介したグプタ朝の時代にできた寺院ですよ。
唐からインドに仏教を学びに来たのは玄奘だけではありません。もう一人は海からインドに来た義浄(ぎじょう)です。二人がインドに仏教を学びに行ったおかげで、唐の仏教は発展しました。
仏教の本場だったインドですが、ハルシャ王の死後、徐々に仏教は衰退します。代わりにヒンドゥー教が発展しました。
ヴァルダナ朝滅亡後→分裂時代
ハルシャ王が亡くなると、すぐにヴァルダナ朝は滅亡します。ヴァルダナ朝滅亡後は300年ほどの分裂時代が続きました。
長い分裂時代を終わらせたのは、インドにできたイスラーム王朝です。そうして、
ガズナ朝→ゴール朝→奴隷王朝→デリー=スルタン朝→ムガル帝国
という風にイスラーム王朝が次々と入れ替わります。
まとめ
いかかでしたでしょうか。今回は古代インド史の流れを浅く広く解説しました。内容を超簡単にまとめると
- 古代インドにいたのは先住民のドラヴィダ人と流入したアーリア人
- 古代インドの流れはインダス文明→ヴェーダ時代→都市国家→マウリア朝→クシャーナ朝→グプタ朝→ヴァルダナ朝
という感じです。
今回の内容をマスターして、良い成績を取りましょう。そうして、あなたの思い描く自由な人生を手に入れて見てください。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
全国民必読の内容 学問のすすめ (何十年後も役立つ)
皆さんこんにちはルリアゲハです。「天は人の上に人を作らず」というフレーズで有名な『学問のすすめ』。あなたは、福沢諭吉の学問のすすめを読んだことがありますか?
「名前は知っているけど読んだことない…」
という人もいるかもしれません。
しかし、学問のすすめは普遍的な内容が書かれています。きっと読み終わったときには
「明治時代に書かれた本なのに、今でも使える考えがたくさん書かれている!」
と気づくでしょう。それくらい長期間使える考えばかりです。
今回は齊藤考さんが現代語訳した『現代語訳 学問のすすめ』を基に学問のすすめの内容を、高校生ブロガーの私が解説していきます。今回紹介する本の見た目はこんな感じです。
(私の手元にある本を撮影)
この記事を読めば
- 学問のすすめはどんな内容なのか
- 作者の福沢諭吉について
- 学ぶことの本質的な意味
- 今回紹介した現代語訳 学問のすすめについて
分かります。
学問のすすめの内容
学問のすすめの内容を一言で言うと、学問の重要性についてです。学問のすすめが刊行された明治初期はあることが求められていました。何なのでしょうか。
それは
どうすれば日本を植民地化から守り、近代化できるのか
です。学問のすすめは近代化のする方法を日本人に広めるために書かれました。
また、日本や外国(主に西欧諸国)の書物、歴史、風習などからピックアップして取り上げているのも特徴です。例えば日本のものでは、
- 江戸時代の幕府が絶対という常識
- 忠臣蔵
- 今川義元と桶狭間の戦い
- 日本の毎日風呂に入るという習慣
外国のものでは
- 中国の華夷思想
- ルターの宗教改革(ヨーロッパ)
- 普仏戦争(プロイセン フランス)
- 西洋諸国のスピーチという習慣
などが効果的に取り上げられています。
しかし、本自体は色々な内容が取り上げられています。色々な内容の例を挙げると
- 学問の重要性
- 政治や法
- 豊かな国を作るために国民がすべきこと
- 判断力を鍛えるには
- 人付き合いについて
などです。なので、自分の興味のある所から読めるようになっています。
そして、今回紹介する現代語訳 学問のすすめは
文語→現代語
に訳されている本です。
- 自分の好きな所から読める構成
- 現代語訳
という点からあなたのイメージよりも読みやすい本ですよ。
現代語訳 学問のすすめ 著者&訳者紹介
著者:福沢諭吉
学問のすすめの著者は一万円札でおなじみ、福沢諭吉です。きっとみんな分かりますよね。福沢諭吉は幕末から明治時代にかけて教育の分野で活躍しました。あの慶応義塾大学の創設に関わった人ですね。
なぜ福沢諭吉は学問のすすめを書いたのでしょうか?
その理由は当時の日本には学問が必要だと考えたからです。元々福沢諭吉は蘭学者で、オランダ語を学んでいました。しかし、日本が開国されて、
「これからの時代はオランダ語じゃなくて、英語だ」
と気づきます。
そして、西欧諸国がどれほど発展した国かや、植民地になった国の惨状を目の当たりにしました。開国した日本を植民地支配から守り、西欧諸国と並ぶ国にするには学問が必要と考えます。
つまり、福沢諭吉は日本人の意識を変えるために学問のすすめを書いたのです。
現代語訳:齋藤孝
そして、学問のすすめを現代語訳したのは齊藤孝(さいとうたかし)さんです。齊藤孝さんは大学教授で、東京大学法学部を卒業しました。さらに同大学の教育学研究科博士課程を経ています。
なぜ学問のすすめの現代語訳版を出したのでしょうか?きっかけは大学生に
「学問のすすめを読んだことがあるか?」
と聞いたことでした。聞いてみるとなんと、読んだことがある人はほとんどいなかったのです。
「もしかすると、文語で書かれているから読まないのかもしれない」
と思い、現代語訳版を作ることにしたそうです。
齊藤孝さんの他の著書としては、『声に出して読みたい日本語』や
『現代語訳 論語』などがあります。ちなみに、まんがでわかる福沢諭吉『学問のすすめ』という本もありますよ。
本から得た学び
学問のすすめ現代語訳を読んで得たのは
- 天は人の上に人を作らず~の真意
- 学ぶことの本質的な意味
- 個人の独立の大事さ
- 相手の言うことを鵜呑みにしないこと
の四つです。それぞれ紹介していきますね。
天は人の上に人を作らず~の真意
有名なフレーズ、「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」は「人はみんな平等なんだよ」と言いたいわけではありません。 このフレーズの後に続く内容をまとめると下のようになります。
人はみんな平等と言われているが、実際は人は平等なんかではない。世の中には賢い人も愚かな人もいる。なぜそんな雲泥の差が出来るのだろうか。理由は簡単だ。賢い人と愚かな人の差は学ぶかどうかでできるものである。
最初の「みんな平等」というイメージと全然違いますね。つまり、人は平等ではないし、学ばないと豊かになれないということです。
学ぶことの本質的な意味
学問のすすめという題名の通り、なぜ学ぶのかという答えがわかります。その答えというのは、より豊かになるためです。
「なんで世の中はこんなに不条理なんだ」
と思う人もいるかもしれません。学問のすすめではこう語っています。
つまり、人は生まれたときには、貴賤や貧富の区別はない。ただ、しっかり学問をして物事をよく知っているものは、社会的地位が高く、豊かな人となり、学ばない人は貧乏で地位の低い人となる、ということだ。
出典:現代語訳 学問のすすめ 福沢諭吉 齊藤孝=訳 筑摩書房 2009年2月10日発行
そして、福沢諭吉は学問は日常生活で活かせてこそ意味があると言っています。
個人の独立の大事さ
学問のすすめでは個人が独立して生きる大切さを説いています。ここでいう独立というのは、誰かに依存せずに生計を立てるというだけではありません。精神的な独立も指しているのです。
精神的な独立というのはどういうことでしょうか。 簡単に言うと、自分の価値観で生きるということです。例えば、
- 物の支配から抜け出す
- 他人の真似ばかりするのを止める
ということですね。
服を例にすると、
物の支配というのは、
「あの服が欲しい」
と言って、手に入ると、また違う服が欲しくなることです。この状態だと、いつまでたっても心が満たされないですよね。
また、みんなが着ているからという基準だけで服を選んでも、同じように、ずっと満足できないです。
服に限らず、今の時代は物も溢れていますよね。さらに、色々なものが欲しくなる広告の誘惑もあります。
なので、自分の価値観で物事を決められないと、心が満たされずにお金ばかりが無くなっていきます。
他には独立できないとどうなるのでしょうか?本の言葉を借りるとこうです。
独立の気概がない者は、必ず人に頼るようになる。人に頼る者は、必ずその人を恐れることになる。人を恐れる者は、必ずその人間にへつらうようになる。
出典:現代語訳 学問のすすめ 福沢諭吉 齊藤孝=訳 筑摩書房 2009年2月10日発行
つまり、誰かを頼ってしまうと、
「いつかその人が自分を助けてくれなくなったらどうしよう…」
と思い、自分を助けてくれる人にずっとゴマを擦り続けます。
こうなるとなかなか抜け出せません。
それでは、どうすればいいのでしょうか?やはり、学問を修めることが個人の独立に欠かせません。
相手の言うことを鵜吞みにしないこと
学問のすすめには判断力を鍛えなさいという内容のパートがあります。このパートで批判しているのは、西欧を妄信するあまり、西欧の悪い点までも真似しているということです。それでは、どうすれば良いのでしょうか?福沢諭吉は学問のすすめで
「どれが正しいか見分けられるようになるには、学問が必要」
と答えています。
あなたも
- 周りの人たちが言っていたから
- なんかすごそうな人が言ってるから
- それが常識だから
と相手の言うことを鵜呑みにしていませんか?今の時代は情報が溢れています。
そんな時代で結果の出せる人は、
「たくさんある中から正しい情報を見つけて、行動に移せる人」
です。正しい情報を見つけるためには学ぶことが必要ですよね。
「まず何から学べば良いのか?」
と思ったかもしれません。
私なりの答えとしては歴史(つまり過去)を学ぶことです。私のサイト、ルリアゲハの英語&歴史塾では、
高校世界史についての記事もあるので良ければご覧ください。
まとめ
いかがでしたでしょうか。今回は学問のすすめ 現代語訳を基に、学問のすすめの内容について解説しました。
今回紹介した本の内容をまとめると
- 学問のすすめは福沢諭吉が学問の重要性を説くために書いた
- 天は人の上に人を造らずというフレーズ=平等という意味ではない
- 学問をする意味=個人と国が独立して、豊かになるため
- 判断力を鍛えるには学問が必須
という感じです。
正直に言って、全国民が読むべきというほど良書です。確かに、小手先のテクニックは少ないかもしれません。しかし、明治初期に出されて今まで読み続けられた本なので、この先何十年も使えるでしょう。
さあ、学問のすすめ 現代語訳を読んで、あなたの未来を変えてみませんか?
最後まで読んでいただきありがとうございます。
(世界史)定期テスト対策向けのオランダ独立戦争(これで完璧)
皆さんこんにちはルリアゲハです。
世界史を勉強しているとオランダ独立戦争っていうのが出てきますよね。オランダ独立戦争は
- ユグノー戦争
- 三十年戦争
と並ぶ宗教戦争の一つです。細かく見ていくと、北部~州とか、南部~州とか独立するまでの流れとかがややこしいですよね。
そんなあなたに一つ質問です。オランダはこの戦争で独立しますが、どういう流れで独立したのでしょうか?
「オランダ独立戦争?なにそれ全然わからない…」
という方も大丈夫です。
この記事を読めば
- オランダ独立戦争って何なのか
- なぜ起こった
- ユトリヒト同盟
- オランダ独立戦争の終結
について理解できるようになります。
オランダ独立戦争とは?
オランダ独立戦争というのは1568年から起こった戦争です。当時スペイン領土だったオランダとスペインとが対立します。当時オランダはネーデルラントと呼ばれており、カルヴァン派が多い地域でした。
カルヴァン派というのは、宗教改革で生まれた反カトリックの宗派の一つですね。もう一つはドイツでルターが唱えたルター派です。
「宗教改革って何だったっけ」
という方には
世界史が完璧 宗教改革 ルターとカルヴァンの改革 - ルリアゲハの英語&歴史塾
がおすすめです。オランダ独立戦争は長く続いた戦争で、八十年戦争とも呼ばれています。
なぜ起こった?
オランダ独立戦争はなぜ起こったのでしょうか?答えはスペイン王のフェリペ2世が
- カトリックの信仰
- 重税
をスペイン領のオランダに強要したからです。
フェリペ2世というのはスペインの黄金期を作った王様で、熱心なカトリック信者でした。
フェリペ2世やスペインの最盛期についてもっと知りたい方は(世界史) 今日から分かるスペイン最盛期 - ルリアゲハの英語&歴史塾
がおすすめです。
カトリックの強要をするスペインの政策に反発し、オランダは戦争を起こします。そりゃそうですね。
ゲームが好きな人で言うと
「明日からゲームは禁止!!」
と言われるようなものですからね。
南部と北部のやる気の差
長く続いたオランダ独立戦争ですが、ひとつの問題が発生します。オランダ北部と南部のやる気の差ですね。
ちなみにオランダ北部というのは、現在のオランダです。もう一方の南部は現在のベルギーですね。南部というのは中世ヨーロッパで、毛織物工業が盛んなフランドル地方という場所です。
戦争に対するやる気の差から南部十六州は
「こんなきつい戦いしたくない…もう辞める!」
という感じで戦いから離脱します。
なぜ南部十六州は降伏したのでしょうか?それは、南部にはカトリック教徒が多かったからです。北部と違って、カルヴァン派はそんなに多くありませんでした。南部の人々からすると、独立国になれなくても、カトリックを信じているから大丈夫でした。だから、南部は北部に比べて、戦争を続けるメリットが少なかったのです。
南部十六州が離脱したので、北部七州は
「ヤバイ…味方が減った。これからどうしよう…」
という感じで焦ります。まさにオランダにとっては大ピンチですね。
ついにオランダ独立
それでは、北部七州だけとなったオランダの奮戦を見ていきましょう。北部七州は
「カルヴァン派を堂々と信仰できるようにまで全力で戦おう!」
と固く誓い、ユトテヒト同盟を結成します。
ユトテヒト同盟をまとめたのはホラント州という州です。このホラント州というのが日本での呼び名、オランダの語源となりました。オランダといえば、江戸時代に日本と貿易をしてましたよね。どこから来たのかと聞かれたオランダ人は
「ワタシはホラント州から来ました」
といったところ、
「え?オランダって言った?」
と思ったのかもしれません。
そうしてホラント州を中心にまとまったユトレヒト同盟にオラニエ公ウィレムという人物が現れます。
オラニエ公ウィレムの活躍により、1581年オランダはネーデルラント連邦共和国として独立”宣言”しました。注意してほしいのが、”宣言”なのでまだ正式に独立を認められていないということです。
つまり
「私たちの国は独立します!」
と叫んだだけなのです。
宣言だけでは周囲の国は賛成しているか、反対しているかもわかりません。ただオランダが独り言を呟いているだけというイメージです。
正式にオランダの独立が国際的に認められたのは、ウェストファリア条約ですね。ウェストファリア条約というのは、三十年戦争を終わらせた国際条約です。
長い戦争は完全に終結し、ついにオランダは独立しました。独立後のオランダは、現在の首都アムステルダムを中心に発展します。
まとめ
いかがでしたでしょうか。今回はオランダ独立戦争について解説しました。
今回の内容を時系列順にまとめると、
オランダ独立戦争は
- フェリペ2世がオランダにカトリックと重税を強要
- オランダのカルヴァン派たち反発→戦争に
- 途中で南部10州が離脱、北部7州でユトレヒト同盟
- オランダが独立宣言
- ウェストファリア条約で周辺国はオランダの独立を承認
- ネーデルラント連邦共和国として正式に独立
ですね。
今日の内容をマスターして高得点をゲットしましょう。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
(世界史) 今日から分かるスペイン最盛期
皆さんこんにちはルリアゲハです。
世界史を勉強していると、スペインの最盛期というのが出てきますよね。最盛期のスペインは、太陽の沈まぬ国と呼ばれるようになりました。太陽の沈まぬ国というのはどういうことなのでしょうか?そして、なぜスペインはこんなに発展したのでしょうか?
わからないという方も大丈夫です。
この記事を読めば
- なぜスペインはこんなに発展したのか
- 最盛期を作った二人の王様
- 太陽の沈まぬ国の意味
- スペインの衰退
について理解できます。
なぜスペインはこんなに繁栄した?
この時代のスペインの最大領土(フェリペ2世がポルトガル王を兼任した時)はこんな感じです。(青…ポルトガル領 赤…スペイン領)
なぜスペインはこんなに大きくなったのでしょうか?答えは
です。まずは二人の王、カルロス1世とフェリペ2世から見ていきましょう。
サラブレッドなスペイン王兼神聖ローマ皇帝 カルロス1世
一人目の王カルロス1世は家柄に優れていました。なんと父方はハプスブルク家、母方はスペイン王家です。
この家系図を見ると、彼の祖父母はレコンキスタでスペイン王国を建てたイサベルとフェルナンドです。なので、教科書の順番では分かりにくいですがスペイン成立から100年も経っていません。ちなみに、ハプスブルク家は代々神聖ローマ皇帝を務める一族ですね。
そんなサラブレッドの彼はスペイン王と神聖ローマ皇帝を兼任しました。神聖ローマ皇帝としてはカール5世なので
カルロス1世=カール5世
ですね。カール5世はルターの宗教改革でも出てきました。
「宗教改革?何それ?」
という人はこちらがおすすめです。
そして、カルロス1世の時からハプスブルク家は
に分かれます。代々オーストリア・ハプスブルク家は神聖ローマ皇帝、スペイン・ハプスブルク家はスペイン王になりました。オーストリア・ハプスブルク家は20世紀まで続きます。あのマリーアントワネットもオーストリア・ハプスブルク家の出身ですね。
偶然が重なってスペイン最大領土達成 フェリペ2世
スペイン・ハプスブルク家のフェリペ2世はカルロス1世の息子です。ちなみに、現在のフィリピンという国名は彼の名前から付けられました。彼の治世にスペイン最大領土を達成します。最大領土というのは、さっき紹介したこの図ですね。
世界中にスペインの領土があったので、太陽の沈まぬ国と呼ばれます。世界中に領土があるので、どこかでは太陽が昇っていますよね。なので、太陽の沈まぬ国です。
なぜフェリペ2世は最大領土を達成できたのでしょうか?理由は
- 新大陸の銀
- ポルトガル併合
の二つです。
当時スペインには新大陸で採れた銀がたくさん入ってきました。大航海時代で新大陸の銀山を支配できたからです。大航海時代について知りたい人はこちらがおすすめです。
こうして、自動的にスペインには銀が入ってくるようになり、財政が潤いました。 (裏には新大陸に住む先住民への搾取があったのですが)
もう一つの要因のポルトガル併合というのは、フェリペ2世がスペイン兼ポルトガル王になったことです。
「なんでフェリペ2世はスペイン王とポルトガル王を兼任できたの?」
と思ったかもしれません。
それはフェリペ2世の母がポルトガル王女だったからです。そう、さっき紹介したカルロス1世はポルトガル王女イサベルと結婚しました。
そして、ちょうどタイミングよくポルトガル王の跡継ぎがいなくなります。フェリペ2世は
「誰も跡継ぎがいないのなら、ポルトガル王家の血を引いた俺が王になろう!」
ということでポルトガル王になりました。
ということで、彼はスペインとポルトガル両方の領土を手に入れます。
ちなみにフェリペ2世の治世に起こった出来事は、
ですね。
スペイン衰退
偶然と言える要素が重なったスペインの繁栄。しかし、スペインは新興国オランダやイギリスに追い抜かれます。
まずはオランダについて見ていきましょう。スペイン領だったオランダ(ネーデルラント)ではオランダ独立戦争が勃発します。戦争が起こった理由は、フェリペ2世が重税とカトリックを強要したからです。オランダはカルヴァン派が多かったので、反発しました。長い戦争の結果、オランダは独立します。
もう一方のイギリスは、アルマダの海戦でスペインの無敵艦隊を倒しました。
ちなみに、このときイギリスはエリザベス1世の治世でした。
このように、スペインはオランダとイギリスの繁栄により衰退していきます。
まとめ
いかがでしたでしょうか。今回は太陽の沈まぬ国となったスペインを解説しました。内容をまとめると、
- スペインはカルロス1世とフェリペ2世の治世に繫栄した
- 繁栄の理由は新大陸の銀とポルトガルを併合できたこと
- 太陽の沈まぬ国=世界中にスペイン領がある
- オランダやイギリスに追い抜かれて衰退
という感じです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
(中学英文法)ケアレスミス撲滅 一般動詞の現在形
皆さんこんにちはルリアゲハです。中学英文法を勉強すると最初の方に出てくる一般動詞の現在形。あなたも一般動詞は目にしたことがあると思います。しかし、
「一般動詞はどんなことを表すときに使うのか」
「なんでbe動詞と一般動詞は一緒に使えないのか」
「一般動詞にsが付くのはどんな時なのか」
と聞かれるとすぐに答えるのは難しいですね。一般動詞は基本的な文法なので、分からないと
- 一般動詞にsを付け忘れて点を落とす
- 一般動詞とbe動詞がごっちゃになる
- 不自然な文になって相手に伝わらない
など悲惨なことになります。特にsを付け忘れるというのは英語に慣れた後もやらかしがちです。
しかし、この記事を読めば
- 一般動詞の役割
- be動詞と一般動詞が一緒に使えない理由
- 3単現と一般動詞にsが付くとき
- 一般動詞の疑問文と否定文の作り方
が理解できます。
一般動詞の現在形はどんな時に使う?
一般動詞を使うときは「過去・現在・未来」を表すときです。なので、一般動詞の役割は「昨日も今日も明日も続ける動作(習慣)を表す」
ですね。
例文を出すと
I get up 6 :00.(私は6時に起きる)
という感じです。この文は特に毎日とは言っていませんが、
「私、昨日も今日も明日も6時に起きるんだ」
というニュアンスを表しています。
また、一般動詞の現在形には現在と付くわりにはあまり臨場感がないのが特徴です。
例えば、私がピアノを弾くというのを英語で言おうとします。
一般動詞の現在形だと
I play the piano.
で、現在進行形では
I’m playing piano.
ですね。
一般動詞の現在形の文だと
「私はピアノを弾きます。」
という感じで今まさに起こっているんだという感じではないですね。
一方、現在形と間違えやすい現在進行形では
「私は今まさにピアノを弾いているんですよ!」
という臨場感があります。似た表現である現在形と現在進行形の違いは、臨場感の違いですね。
ちなみに、一般動詞の現在形は基本的にbe動詞と同じ文で一緒に使えません。(接続詞を使うなどの例外はあり)
まとめると、
- 一般動詞の現在形=過去・現在・未来を表す
- 一般動詞の現在形と現在進行形の違い=臨場感の違い
- 一般動詞の現在形とbe動詞は同じ文に二つとも使えない
です。
一般動詞はbe動詞と一緒に使えない
さっき触れたように、一般動詞の現在形とbe動詞の現在形は同じ文に二つとも使えません。
「なんで一緒に使えないのか」
と思ったかもしれません。答えは英語の5つある文型に動詞が二つ付くものはないからです。
例1,I am a student.
例2,I like dogs.
1の文は英語の5文型のSVCの文型で、2の文はSVOの文型です。 S=主語 V=動詞と考えると、どちらの文型も主語と動詞は一つずつですね。
なので、英語の文型の法則から一般動詞とbe動詞は一つの文に両方使えないことが分かります。
sが付くとき
主語がhe she it そして、一つの人や物のときはsが動詞に付きます。
例文:She likes dogs.
「どういうこと?」
と思ったでしょう。 動詞にsが付くのは3つの条件を満たしたときです。三つの条件というのは
- 主語がIとyou以外(三人称)
- 主語が単数形
- 一般動詞が現在形
になるときです。この条件を三人称単数現在形(三人称)と言います。
まず、主語の代名詞というと
ですよね。
一つ目の条件のIとyou以外と、二つ目の条件の単数形だけを満たすのは、この3つです。
そして、三つ目の条件は、like,do,playなどの一般動詞の現在形です。
なので、主語がhe she it そして、一つの人や物の名前が来るときは、sが動詞に付きます。
疑問文と否定文の作り方
疑問文や否定文を作るときはdoやdoesを使います。疑問文では主語と動詞をひっくり返して、?をピリオドの代わりにつけます。
一方、否定文はdo(does)のすぐ後にnotが付きますね。
例文:Do you like dogs?
I do not(don't) like dogs.
Does he like dogs?
He doesn't like dogs
疑問文に答えるときはdo youで聞かれたら
はい Yes,I do
いいえ No, I am not.
と答えます。
does sheから聞かれたときは
はい Yes, she does.
いいえ No, she does not.
です。
Yes ,~やNo,~は文法上は正しいのですが、日常会話で使うとなんか味気ないですね。日本語で日常会話っぽくすると
「犬が好き?」
「うん、好き」
「じゃあ、猫はどう?」
「あまり好きじゃないかな…」
やっぱり会話としてつまらないですね。なので、なので基本的に文法問題でのみ使いままります。ちなみに、doesはdoにsを付けた形です。なので、上で紹介したsがつく法則に当てはまります。
「どうやって活用するの?」
と思った方もいるかもしれません。そんな方は下の表をご覧ください。
こんな感じで形を変えていきます。
まとめ
いかがでしたでしょうか。今回は
- 一般動詞の使い方
- be動詞と一般動詞の違い
- 3単現のs
- 疑問文と否定文の作り方
について解説していきました。
基本の英文法を完璧にして、三単現のsを付け忘れるなどの凡ミスをなくしましょう。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
完全版 世界史 古代エジプト文明
皆さんこんにちはルリアゲハです。世界史を勉強していると、出てくる古代エジプト文明。一度習った人もいるでしょうが、どんな文明だったか説明できるでしょうか?今説明できないと思った人も大丈夫です。
この記事を読めば、
- 古代エジプト文明の特徴
- 文化
- 3つの時代区分
- 政治体制とファラオ
について理解できます。
古代エジプト文明の特徴
ナイル川の流域で発展
古代エジプト文明はナイル川流域で発展しました。なんでナイル川流域なのかというと、ナイル川は毎年洪水を起こしたからです。洪水は上流から豊かな土壌を運んできて、農業に最適な環境が生まれます。
「エジプトはナイルのたまもの」
と表しました。なんか聞いたことがあると思ったかもしれませんが、まさにその通りですね。
まとめると、
です。
文化
古代エジプトでは多神教を信仰していました。有名な神として太陽神ラーが挙げられます。ゲームが好きな人はなんか聞いたことある名前だと思った人もいるかもしれません。
もう一つ古代エジプトの文化を紹介すると、死後の世界と霊魂の不滅を人々は信じていました。死後の世界が描かれた『死者の書』が有名ですね。そして、霊魂の不滅を信じてミイラを作りました。
古代エジプトで使われていた文字は、神聖文字(ヒエログリフ)と民用文字です。
「一体何が違うのか」
というと、
- 神聖文字は死者を埋葬するとき
- 民用文字は日常生活
に使いました。
「そう言われても、どんな文字かイメージできない」
と思った人もきっといるでしょう。
© Hans Hillewaert, CC 表示-継承 4.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3153928
による
上の画像のロゼッタ=ストーンには神聖文字と民用文字が刻まれています。
ロゼッタ=ストーンは19世紀に発見され、フランス人のシャンポリオンが解読に成功します。エジプト文明は紀元前にあったと考えると、解読されたのは結構最近ですよね。
そして、古代エジプトには紙がなかったので、パピルスという紙のようなものを使用しました。
政治体制
古代エジプトの政治体制はファラオという王が神権政治でまとめていました。
神権政治というのは神が地上に降りてきて、人々を支配するという感じですね。主に古王国、中王国、新王国の三つの時代に分けられます。
古王国
古王国ではピラミッドがたくさん作られました。ピラミッドというのはこの写真のようなものですよね。
有名なギザのピラミッドはこの古王国時代にできます。
王の墓と言われていますが、実際は謎に包まれた建造物です。
中王国
中王国ではナイル川上流のテーベという都市で栄えます。中王国時代の特徴的な出来事として、異民族ヒクソス侵入ですね。中王国末期に起こった侵入はエジプトに大混乱を引き起こします。しかし、次に紹介する新王国がヒクソスを追い払いました。
新王国
ヒクソスを追い払って生まれた新王国はエジプト文明の最盛期と言われています。
なぜ最盛期なのでしょうか。その理由は最大の領土を治めたからです。
新王国のファラオ、アメンホテプ4世は重要人物ですね。彼はエジプトをアトン神だけを信じる一神教にしました。自分のことをイクナートン(アトンに愛された者)と名乗ることもします。さらには、都をテーベからテル=エル=アマルナへ移す大改革をしました。今までエジプトは多神教でした。多神教だった人々はどんな反応をするでしょうか。今まで多神教を信じていた人々が
「これからはアトン神だけを信じなさい」
と言われたら、もちろん反対されますよね。なので、アメンホテプ4世が死ぬと、エジプトは多神教に戻りました。しかし、アメンホテプ4世の改革は写実的なアマルナ美術を残します。この後のファラオが、あの黄金のマスクで有名なツタンカーメンです。
まとめ
いかがでしたでしょうか。今回は古代エジプト文明を文化なども紹介して、完全版として解説しました。
今回の内容を押さえて、テストで高得点を狙ってみてください。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
世界史が完璧 宗教改革 ルターとカルヴァンの改革
皆さんこんにちはルリアゲハです。世界史を勉強していると、出てくる宗教改革やルターとカルヴァン。
「宗教改革はどんな改革で、どんな経緯で始まり、結果何が起こったのか?」
「ルターとカルヴァンはどんなことを主張したのか」
と聞かれると、答えるのはなかなか難しいですね。確かに宗教改革は色々なことが起こったりするのでややこしいかもしれません。そして、
大丈夫です。この記事を読めば
について理解できます。
宗教改革
宗教改革は中世のキリスト教世界を否定する一連の流れのことです。
中世のキリスト教世界ではカトリックは絶大な支持を集めます。言うならば
「ローマ教皇の言うことは絶対!」
でした。そうした中で聖職売買(賄賂を贈って高位の聖職者にしてもらう)や聖職者の腐敗が横行します。その結果、宗教改革が起こりました。
ちなみに宗教改革とほぼ同時期に大航海時代やルネサンスが起こります。なので、大航海時代、ルネサンス、宗教改革はセットで出てきますね。大航海時代やルネサンスについて詳しく知りたい人はこちらです。
それぞれ
という感じで三つとも中世の社会を変えていきます。しかし、宗教改革は他の二つと違って戦争が起こるきっかけとなります。
始まる経緯
宗教改革が始まったきっかけはレオ10世の贖宥状(しょくゆうじょう)の販売です。贖宥状(≒免罪符)は簡単に言うと、買うと罪が赦されて、天国に行けるという物です。買うだけで罪が赦されるなんてあるわけないですよね。なので、この贖宥状が問題となります。
当時黒死病(ペスト)の大流行などにより多くの人は
「いつ死ぬのかわからないなあ。私は死んだら天国に行けるのだろうか…」
という死への不安を抱いていました。
そうした背景もあって、贖宥状(免罪符)は飛ぶように売れます。教会にはどんどんお金が入ってきます。
ここまでの話で
「確かに教会は嘘を言って儲けたけど、免罪符を買った人々は死への不安が軽減された。だからお互いウィンウィンだからいいんじゃないか?」
と疑問に思うかもしれません。
しかし、レオ10世が贖宥状(免罪符)を販売したのはサン・ピエトロ大聖堂を建てる資金集めをするためです。サン・ピエトロ大聖堂はバチカンにあり、建てるのに100年以上かかりました。莫大な建築費を集めるために、何も知らない信者から金を巻き上げたとも言えますね。なので、カトリック教会は批判されて、宗教改革が起こります。
聖書が一番 ドイツのルター
ドイツ(神聖ローマ帝国)のマルティン・ ルターは腐敗した教会を批判します。
当時ドイツ(神聖ローマ帝国)ではたくさんの贖宥状(免罪符)が売られていました。ドイツでは
皇帝の権力<教皇の権力
だったからです。教皇の権力が強かったので、他の地域より贖宥状(免罪符)が売りやすかったということですね。
そんな中、ルターは五十五か条の論題を発表して、教会が信者から金を巻き上げた贖宥状を批判します。さらに、『キリスト教の自由』も発表し、
- 信仰義認説(人は信仰によって義とされる)
- 聖書主義(聖書に書いてあることだけが正しい)
を主張します。聖書には「贖宥状を買えば罪が赦されて天国に行ける」なんて書いていませんでした。なので
「聖書に書いていないことをするカトリックは間違っている!」
ということですね。
ちなみに、ルターはヴィッテンベルクの人気神学教授でした。強い影響力があったので、瞬く間に
- 諸侯
- 市民
- 農民
に主張は広まります。ルターの主張を支持する人のことをルター派と言います。
皇帝と教皇の迫害
多くの人に支持されたルターですが、教皇にも批判が伝わって、破門にされてしまいました。破門は、カトリック教会にとって都合の悪い人を追い払う手段です。さらに悪いことに、神聖ローマ皇帝のカール5世からヴォルムス帝国議会に呼び出されます。
諸侯たちが集まる議会で、カール5世はルターに自説を撤回することを求めました。しかし、ルターは撤回するのを断ります。
なぜ、カール5世はカトリックの味方をしたのでしょうか。答えは神聖ローマ皇帝は教皇に皇帝の位を授かったからです。なので、立場的にカトリックを庇わなければいけませんでした。
迫害されても諸侯や各都市はルターを支持しました。特にザクセン選帝侯フリードリヒはルターを保護します。選帝侯というのは皇帝を選ぶ有力諸侯のことです。なぜザクセン選帝侯フリードリヒは、わざわざルターを庇ったのでしょうか。迫害されている人を庇うのはリスクがありますよね。その理由は
「俺、カール5世のこと大嫌い。だからあいつの嫌がることをしよう!」
です。
そうしてルターはザクセン選帝侯の城で保護されながら、新約聖書のドイツ語訳を完成させました。
翻訳された聖書は活版印刷で多くの人に読まれました。活版印刷はルネサンスでヨーロッパに広がったものの一つですね。
ルター派ムーブメント
ドイツではたくさんのルター派の人が社会に影響を与えていきます。ドイツ農民戦争や諸侯たちがルター派を公認させようとする流れですね。
まず起こったのがドイツ農民戦争です。ルター派のミュンツァーに中心に農民たちが、立ち上がります。要求したのは中世の支配体制廃止です。中世の支配体制というのは領主が農奴(農民)から搾取する体制ですね。
ルターは最初は農民たちの味方でしたが、最終的に諸侯に協力します。この結果ルターは農民と諸侯にどう思われたのでしょうか?答えは
農民 「ルターに裏切られた!ルター最低!」
諸侯 「ルターは俺たちの味方になってくれた。ルター最高!」
です。
こうして、ルターは諸侯の支持を得て、領邦教会制を始めます。
領邦教会制ではカトリック教会に代わって、諸侯がトップの教会ができました。
教皇の影響を受けないので、諸侯にとって都合のいい教会ですね。さらに、カトリック特有の修道院やミサも廃止しました。
ドイツのすぐそばまで迫ってましたね。オスマン帝国に対抗するため、ドイツではルター派が公認されます。今まで弾圧していたルター派の力で国をまとめようとしたのです。
そして、最大のピンチ第一次ウィーン包囲が訪れました。オスマン帝国はウィーンを包囲しましたが、撤退します。ドイツの危機が去ると、再びルター派を弾圧しました。もちろんルター派は
「都合が良すぎる!」
と怒りますよね。ルター派やカルヴァン派がプロテスタントと呼ばれるのは、抗議(プロテスト)したからです。
最終的には、アウクスブルクの和議で諸侯はカトリックかルター派か選べるようになります。しかし、カルヴァン派を選ぶことや、民衆の選択権はありませんでした。
神を絶対視 スイスのカルヴァン
ルターが宗教改革をしている間、スイスではツヴィングリが宗教改革をしていました。ツヴィングリの改革は失敗してしまいますが、カルヴァンの宗教改革につながっていきます。
そうして、神を絶対視するカルヴァンがスイスで立ち上がりました。カルヴァンはジュネーブで神権政治と呼ばれる政治、宗教的な改革を始めます。そして、『キリスト教綱要』という本でキリスト教のあるべき姿を主張しました。主張したのは
- 予定説
- 蓄財肯定
- 長老制
です。いったいどういう意味なのでしょうか。
予定説は
「天国に行けるかどうかは神によって最初から決まっている」
という説です。なので、免罪符を買ったりなどの行動は無駄ということですね。予定説を聞いた人々は
「自分が天国に行けるかはどうやったらわかるのだろう?」
と思ったでしょう。その疑問にカルヴァンはこう答えます。
「あなたに与えられた仕事を一生懸命しなさい。使命である仕事を頑張って、お金が貯まればあなたは天国に行ける人です。」
カルヴァンの教えでは蓄財を肯定します。
キリスト教ではお金を貯める=悪いイメージというのが常識でした。しかし、蓄財肯定のカルヴァンの教えは商人たちに受け入れられます。
もう一つカルヴァンは長老制という仕組みを主張します。長老制は今までの教会の
「上の言うことは絶対」
という風潮を改めるために行われました。図のように牧師と信者の中から選ばれた長老で教会を運営します。
広がるカルヴァン派
お金儲けを肯定したカルヴァンの考えはドイツだけでなく、イギリス(イングランド、スコットランド)、オランダ、フランスに広がります。カルヴァン派はそれぞれの地域で呼び名が付きました。代表的なものを紹介すると
フランス…ユグノー(蔑称)
オランダ…ゴイセン(蔑称)
です。彼らはそれぞれユグノー戦争、ピューリタン革命、オランダ独立戦争を起こします。
まとめ
いかがでしたでしょうか。今回は
について解説しました。
今回解説した宗教改革は、この後宗教戦争につながっていきます。宗教戦争を完璧に理解するためにも今回学習したことを覚えておきましょう。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
(英文法)初心者でもわかるaとtheの違い(完全版)
皆さんこんにちはルリアゲハです。
英語を勉強していると名詞の前にa やtheが出てきますよね。この二つはいったいどんな違いがあって、どう使い分けるのでしょうか?
「何それ…」
と思って文法書を読んでも
- 冠詞
- 定冠詞
- 不定冠詞
のような難しそうな言葉が並んでいますよね。
しかし、この記事を読めば難しい言葉なしで
- aとtheの違い
- 二つをどうやって使い分けるのか
- なぜ楽器を演奏するというときにはtheが必要なのか
- aとanの使い分け方
を理解できます。
theは誰もが指させる aはたくさんある中の一つ
この二つの違いは、theは誰もが指させる、aはたくさんある中の一つです。
どういう意味かを知るためにも二つの共通点を確認しましょう。aとtheの共通点は
- 名詞(物の名前)の直後につく
- 一つのもの(一人)を表すときに使う
です。
theは誰もが指させる、aはたくさんある中の一つというのはどういうことでしょうか。
the というのは
「そんなの言わなくても分かるだろ」
と言えるときに使います。
例えば、あなたが友達が二人で話していたとしましょう。
二人で話していると、鬼滅の刃の漫画の話になりました。
話の中で
「The comic is great.」
という言葉が聞こえたら、100%鬼滅の刃の話をしていますね。二人の話を聞いていた第三者も
「二人がすごいと言っていたのは鬼滅の刃だろ」
と答えます。100人や1000人に聞いても同じ答えが返ってくるでしょう。
なのでthe は誰もが指させるのです。
一方のaは、言わないと分かりません。世の中には膨大な数の漫画がありますよね。
なので
「A comic is great.」
とだけ言われると
多くの人が
「どの漫画のことを言ってるんだ?」
という疑問が生まれます。「この漫画のことだよ」と特定していないからです。
なので、aはたくさんあるうちの一つなのです。
theを使うときは?
theを使うのはどんな場合なのでしょうか?theを使う場合は
- 話題に上がっているなどの前提があるとき
- 世界に一つしかないものについて述べるとき
- 楽器を演奏するというとき
などです。一つずつ見ていきましょう。
1,話題に上がっているなどの前提があるとき
話題に上がっているなどの前提があるときというのは、
上でも説明したような「わざわざ言わなくても分かるだろ!」
という場合です。
2,世界に一つしかないものについて述べるとき
世界に一つしかないもの(固有名詞)にもtheを付けます。世界に一つしかないものの例として
- 太陽(the sun)
- ルーブル美術館(the Louvre)
- 地球(the earth)
などが挙げられます。
theというのは言わなくても特定できるときに付きますよね。なので、
世界に一つしかない=言わなくても特定できるからa が付く
です。
3,楽器を演奏すると言うとき
楽器を演奏するというときもtheを付けます。
ピアノを弾く=play the piano
ギターを弾く=play the gutar
となりますね。
ではなぜtheを付ける必要があるのでしょうか。答えは
- 大体の楽器の形は説明しなくても伝わるから
- 選択肢の中でthe が一番自然なニュアンスだから
の二つです。
大体の楽器は説明しなくても伝わるからということについて考えてみましょう。。仮にあなたが今
「I play the gutar every day.」(私は毎日ギターを弾いてます)
と言われたらこの画像のような楽器を思い浮かべるでしょう。
おもちゃのギターを思い浮かべた人はいないですよね。このように楽器には一般的な形があるので
the=言わなくても分かるというときに使う
という法則に当てはまるのです。
ここまでの話を聞いて
「なんで play a gutarや play gutarsだとダメなの?」
と思った人がいるかもしれません。play a gutarだと
「他のギターは弾けないけど、このギターだけは弾けるんだ。」
という意味合いになります。a=たくさんある中の一つだからですね。なので、play a gutarは不自然ですね。
もう一つの選択肢 play gutarsは
「世の中の大半のギターは弾けるんだけど、引けないギターもあるかも…」
という意味合いです。名詞にsが付くと、大半の物という意味になります。話し手は単に
「私ギター弾けますよ」
と言いたいだけなので、sを付けるのはまずいですね。
以上のことから
楽器を演奏する=play the~
が一番自然といえます。
a(an)を使うときは?
それでは、aが付くのはどんな時でしょうか。aが付くのは「言わなくても分かる」という前提が何もないときです。
例えば、私=生徒と言いたいとします(話題には全く上がっていません)。
1, I am a student.
2, I am the student.
1か2どちらが正しいでしょうか。
もちろん1番ですね。たとえ世界に自分だけしか生徒がいないとしても、話題に上がっていなければ”a”を使います。
ちなみに、aにはstudentsのような複数形はつけられません(theはOK)。
✕ a students
〇 the students
aとanの使い分け
直後の名詞が母音の発音で始まる場合は”an"です。母音の発音というのはa i u e o(あいうえお)の発音のことですね。
なので、an apple an octpus になります。注意点として、文字がa i u e oでもあいうえおと発音しないときは”a~"です。
例: a university(ユニバーシティ) a uniform(ユニフォーム)
番外編 冠詞ってどんなもの?
冠詞の働き
冠詞(a,the)はどういった働きをするものなのでしょうか?冠詞というのは名詞の直前に付いて、後ろの名詞の性質を予想させるものです。名詞の性質を予想させるというのはプレゼントの箱や包装紙のようなものです。
少しイメージしてみましょう。あなたは人からプレゼントをもらったとします。
包装紙に包まれたプレゼントを見て、
「嬉しい、何が入っているのだろうか?」
とワクワクしますよね。そしてプレゼントの大きさや重さから何が入っているかなんとなく分かるかもしれません。
このように、冠詞はその後を予測させる力があります。
冠詞に何もつかないときもある
大体名詞には何か冠詞が付きますが、何もつかない時もあります。例えばwater(水)やnature(自然)など区切りがはっきりして数えられないですよね。
数えられない名詞の時にはaもtheも付きません。
まとめ
いかがでしたでしょうか。今回はaとtheと違いについて解説しました。内容をまとめると
- aとtheはどちらも一つのものを指すときに名詞の前に付ける
- theを使うときは言わなくても分かる時
- aを使うのは言わないと分からない時
です。
今回学んだことを生かして、文法の凡ミスを減らしてみてくださいね。
最後まで読んでいただきありがとうございました。