完全版 世界史 古代エジプト文明
皆さんこんにちはルリアゲハです。世界史を勉強していると、出てくる古代エジプト文明。一度習った人もいるでしょうが、どんな文明だったか説明できるでしょうか?今説明できないと思った人も大丈夫です。
この記事を読めば、
- 古代エジプト文明の特徴
- 文化
- 3つの時代区分
- 政治体制とファラオ
について理解できます。
古代エジプト文明の特徴
ナイル川の流域で発展
古代エジプト文明はナイル川流域で発展しました。なんでナイル川流域なのかというと、ナイル川は毎年洪水を起こしたからです。洪水は上流から豊かな土壌を運んできて、農業に最適な環境が生まれます。
「エジプトはナイルのたまもの」
と表しました。なんか聞いたことがあると思ったかもしれませんが、まさにその通りですね。
まとめると、
です。
文化
古代エジプトでは多神教を信仰していました。有名な神として太陽神ラーが挙げられます。ゲームが好きな人はなんか聞いたことある名前だと思った人もいるかもしれません。
もう一つ古代エジプトの文化を紹介すると、死後の世界と霊魂の不滅を人々は信じていました。死後の世界が描かれた『死者の書』が有名ですね。そして、霊魂の不滅を信じてミイラを作りました。
古代エジプトで使われていた文字は、神聖文字(ヒエログリフ)と民用文字です。
「一体何が違うのか」
というと、
- 神聖文字は死者を埋葬するとき
- 民用文字は日常生活
に使いました。
「そう言われても、どんな文字かイメージできない」
と思った人もきっといるでしょう。
© Hans Hillewaert, CC 表示-継承 4.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3153928
による
上の画像のロゼッタ=ストーンには神聖文字と民用文字が刻まれています。
ロゼッタ=ストーンは19世紀に発見され、フランス人のシャンポリオンが解読に成功します。エジプト文明は紀元前にあったと考えると、解読されたのは結構最近ですよね。
そして、古代エジプトには紙がなかったので、パピルスという紙のようなものを使用しました。
政治体制
古代エジプトの政治体制はファラオという王が神権政治でまとめていました。
神権政治というのは神が地上に降りてきて、人々を支配するという感じですね。主に古王国、中王国、新王国の三つの時代に分けられます。
古王国
古王国ではピラミッドがたくさん作られました。ピラミッドというのはこの写真のようなものですよね。
有名なギザのピラミッドはこの古王国時代にできます。
王の墓と言われていますが、実際は謎に包まれた建造物です。
中王国
中王国ではナイル川上流のテーベという都市で栄えます。中王国時代の特徴的な出来事として、異民族ヒクソス侵入ですね。中王国末期に起こった侵入はエジプトに大混乱を引き起こします。しかし、次に紹介する新王国がヒクソスを追い払いました。
新王国
ヒクソスを追い払って生まれた新王国はエジプト文明の最盛期と言われています。
なぜ最盛期なのでしょうか。その理由は最大の領土を治めたからです。
新王国のファラオ、アメンホテプ4世は重要人物ですね。彼はエジプトをアトン神だけを信じる一神教にしました。自分のことをイクナートン(アトンに愛された者)と名乗ることもします。さらには、都をテーベからテル=エル=アマルナへ移す大改革をしました。今までエジプトは多神教でした。多神教だった人々はどんな反応をするでしょうか。今まで多神教を信じていた人々が
「これからはアトン神だけを信じなさい」
と言われたら、もちろん反対されますよね。なので、アメンホテプ4世が死ぬと、エジプトは多神教に戻りました。しかし、アメンホテプ4世の改革は写実的なアマルナ美術を残します。この後のファラオが、あの黄金のマスクで有名なツタンカーメンです。
まとめ
いかがでしたでしょうか。今回は古代エジプト文明を文化なども紹介して、完全版として解説しました。
今回の内容を押さえて、テストで高得点を狙ってみてください。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
世界史が完璧 宗教改革 ルターとカルヴァンの改革
皆さんこんにちはルリアゲハです。世界史を勉強していると、出てくる宗教改革やルターとカルヴァン。
「宗教改革はどんな改革で、どんな経緯で始まり、結果何が起こったのか?」
「ルターとカルヴァンはどんなことを主張したのか」
と聞かれると、答えるのはなかなか難しいですね。確かに宗教改革は色々なことが起こったりするのでややこしいかもしれません。そして、
大丈夫です。この記事を読めば
について理解できます。
宗教改革
宗教改革は中世のキリスト教世界を否定する一連の流れのことです。
中世のキリスト教世界ではカトリックは絶大な支持を集めます。言うならば
「ローマ教皇の言うことは絶対!」
でした。そうした中で聖職売買(賄賂を贈って高位の聖職者にしてもらう)や聖職者の腐敗が横行します。その結果、宗教改革が起こりました。
ちなみに宗教改革とほぼ同時期に大航海時代やルネサンスが起こります。なので、大航海時代、ルネサンス、宗教改革はセットで出てきますね。大航海時代やルネサンスについて詳しく知りたい人はこちらです。
それぞれ
という感じで三つとも中世の社会を変えていきます。しかし、宗教改革は他の二つと違って戦争が起こるきっかけとなります。
始まる経緯
宗教改革が始まったきっかけはレオ10世の贖宥状(しょくゆうじょう)の販売です。贖宥状(≒免罪符)は簡単に言うと、買うと罪が赦されて、天国に行けるという物です。買うだけで罪が赦されるなんてあるわけないですよね。なので、この贖宥状が問題となります。
当時黒死病(ペスト)の大流行などにより多くの人は
「いつ死ぬのかわからないなあ。私は死んだら天国に行けるのだろうか…」
という死への不安を抱いていました。
そうした背景もあって、贖宥状(免罪符)は飛ぶように売れます。教会にはどんどんお金が入ってきます。
ここまでの話で
「確かに教会は嘘を言って儲けたけど、免罪符を買った人々は死への不安が軽減された。だからお互いウィンウィンだからいいんじゃないか?」
と疑問に思うかもしれません。
しかし、レオ10世が贖宥状(免罪符)を販売したのはサン・ピエトロ大聖堂を建てる資金集めをするためです。サン・ピエトロ大聖堂はバチカンにあり、建てるのに100年以上かかりました。莫大な建築費を集めるために、何も知らない信者から金を巻き上げたとも言えますね。なので、カトリック教会は批判されて、宗教改革が起こります。
聖書が一番 ドイツのルター
ドイツ(神聖ローマ帝国)のマルティン・ ルターは腐敗した教会を批判します。
当時ドイツ(神聖ローマ帝国)ではたくさんの贖宥状(免罪符)が売られていました。ドイツでは
皇帝の権力<教皇の権力
だったからです。教皇の権力が強かったので、他の地域より贖宥状(免罪符)が売りやすかったということですね。
そんな中、ルターは五十五か条の論題を発表して、教会が信者から金を巻き上げた贖宥状を批判します。さらに、『キリスト教の自由』も発表し、
- 信仰義認説(人は信仰によって義とされる)
- 聖書主義(聖書に書いてあることだけが正しい)
を主張します。聖書には「贖宥状を買えば罪が赦されて天国に行ける」なんて書いていませんでした。なので
「聖書に書いていないことをするカトリックは間違っている!」
ということですね。
ちなみに、ルターはヴィッテンベルクの人気神学教授でした。強い影響力があったので、瞬く間に
- 諸侯
- 市民
- 農民
に主張は広まります。ルターの主張を支持する人のことをルター派と言います。
皇帝と教皇の迫害
多くの人に支持されたルターですが、教皇にも批判が伝わって、破門にされてしまいました。破門は、カトリック教会にとって都合の悪い人を追い払う手段です。さらに悪いことに、神聖ローマ皇帝のカール5世からヴォルムス帝国議会に呼び出されます。
諸侯たちが集まる議会で、カール5世はルターに自説を撤回することを求めました。しかし、ルターは撤回するのを断ります。
なぜ、カール5世はカトリックの味方をしたのでしょうか。答えは神聖ローマ皇帝は教皇に皇帝の位を授かったからです。なので、立場的にカトリックを庇わなければいけませんでした。
迫害されても諸侯や各都市はルターを支持しました。特にザクセン選帝侯フリードリヒはルターを保護します。選帝侯というのは皇帝を選ぶ有力諸侯のことです。なぜザクセン選帝侯フリードリヒは、わざわざルターを庇ったのでしょうか。迫害されている人を庇うのはリスクがありますよね。その理由は
「俺、カール5世のこと大嫌い。だからあいつの嫌がることをしよう!」
です。
そうしてルターはザクセン選帝侯の城で保護されながら、新約聖書のドイツ語訳を完成させました。
翻訳された聖書は活版印刷で多くの人に読まれました。活版印刷はルネサンスでヨーロッパに広がったものの一つですね。
ルター派ムーブメント
ドイツではたくさんのルター派の人が社会に影響を与えていきます。ドイツ農民戦争や諸侯たちがルター派を公認させようとする流れですね。
まず起こったのがドイツ農民戦争です。ルター派のミュンツァーに中心に農民たちが、立ち上がります。要求したのは中世の支配体制廃止です。中世の支配体制というのは領主が農奴(農民)から搾取する体制ですね。
ルターは最初は農民たちの味方でしたが、最終的に諸侯に協力します。この結果ルターは農民と諸侯にどう思われたのでしょうか?答えは
農民 「ルターに裏切られた!ルター最低!」
諸侯 「ルターは俺たちの味方になってくれた。ルター最高!」
です。
こうして、ルターは諸侯の支持を得て、領邦教会制を始めます。
領邦教会制ではカトリック教会に代わって、諸侯がトップの教会ができました。
教皇の影響を受けないので、諸侯にとって都合のいい教会ですね。さらに、カトリック特有の修道院やミサも廃止しました。
ドイツのすぐそばまで迫ってましたね。オスマン帝国に対抗するため、ドイツではルター派が公認されます。今まで弾圧していたルター派の力で国をまとめようとしたのです。
そして、最大のピンチ第一次ウィーン包囲が訪れました。オスマン帝国はウィーンを包囲しましたが、撤退します。ドイツの危機が去ると、再びルター派を弾圧しました。もちろんルター派は
「都合が良すぎる!」
と怒りますよね。ルター派やカルヴァン派がプロテスタントと呼ばれるのは、抗議(プロテスト)したからです。
最終的には、アウクスブルクの和議で諸侯はカトリックかルター派か選べるようになります。しかし、カルヴァン派を選ぶことや、民衆の選択権はありませんでした。
神を絶対視 スイスのカルヴァン
ルターが宗教改革をしている間、スイスではツヴィングリが宗教改革をしていました。ツヴィングリの改革は失敗してしまいますが、カルヴァンの宗教改革につながっていきます。
そうして、神を絶対視するカルヴァンがスイスで立ち上がりました。カルヴァンはジュネーブで神権政治と呼ばれる政治、宗教的な改革を始めます。そして、『キリスト教綱要』という本でキリスト教のあるべき姿を主張しました。主張したのは
- 予定説
- 蓄財肯定
- 長老制
です。いったいどういう意味なのでしょうか。
予定説は
「天国に行けるかどうかは神によって最初から決まっている」
という説です。なので、免罪符を買ったりなどの行動は無駄ということですね。予定説を聞いた人々は
「自分が天国に行けるかはどうやったらわかるのだろう?」
と思ったでしょう。その疑問にカルヴァンはこう答えます。
「あなたに与えられた仕事を一生懸命しなさい。使命である仕事を頑張って、お金が貯まればあなたは天国に行ける人です。」
カルヴァンの教えでは蓄財を肯定します。
キリスト教ではお金を貯める=悪いイメージというのが常識でした。しかし、蓄財肯定のカルヴァンの教えは商人たちに受け入れられます。
もう一つカルヴァンは長老制という仕組みを主張します。長老制は今までの教会の
「上の言うことは絶対」
という風潮を改めるために行われました。図のように牧師と信者の中から選ばれた長老で教会を運営します。
広がるカルヴァン派
お金儲けを肯定したカルヴァンの考えはドイツだけでなく、イギリス(イングランド、スコットランド)、オランダ、フランスに広がります。カルヴァン派はそれぞれの地域で呼び名が付きました。代表的なものを紹介すると
フランス…ユグノー(蔑称)
オランダ…ゴイセン(蔑称)
です。彼らはそれぞれユグノー戦争、ピューリタン革命、オランダ独立戦争を起こします。
まとめ
いかがでしたでしょうか。今回は
について解説しました。
今回解説した宗教改革は、この後宗教戦争につながっていきます。宗教戦争を完璧に理解するためにも今回学習したことを覚えておきましょう。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
(英文法)初心者でもわかるaとtheの違い(完全版)
皆さんこんにちはルリアゲハです。
英語を勉強していると名詞の前にa やtheが出てきますよね。この二つはいったいどんな違いがあって、どう使い分けるのでしょうか?
「何それ…」
と思って文法書を読んでも
- 冠詞
- 定冠詞
- 不定冠詞
のような難しそうな言葉が並んでいますよね。
しかし、この記事を読めば難しい言葉なしで
- aとtheの違い
- 二つをどうやって使い分けるのか
- なぜ楽器を演奏するというときにはtheが必要なのか
- aとanの使い分け方
を理解できます。
theは誰もが指させる aはたくさんある中の一つ
この二つの違いは、theは誰もが指させる、aはたくさんある中の一つです。
どういう意味かを知るためにも二つの共通点を確認しましょう。aとtheの共通点は
- 名詞(物の名前)の直後につく
- 一つのもの(一人)を表すときに使う
です。
theは誰もが指させる、aはたくさんある中の一つというのはどういうことでしょうか。
the というのは
「そんなの言わなくても分かるだろ」
と言えるときに使います。
例えば、あなたが友達が二人で話していたとしましょう。
二人で話していると、鬼滅の刃の漫画の話になりました。
話の中で
「The comic is great.」
という言葉が聞こえたら、100%鬼滅の刃の話をしていますね。二人の話を聞いていた第三者も
「二人がすごいと言っていたのは鬼滅の刃だろ」
と答えます。100人や1000人に聞いても同じ答えが返ってくるでしょう。
なのでthe は誰もが指させるのです。
一方のaは、言わないと分かりません。世の中には膨大な数の漫画がありますよね。
なので
「A comic is great.」
とだけ言われると
多くの人が
「どの漫画のことを言ってるんだ?」
という疑問が生まれます。「この漫画のことだよ」と特定していないからです。
なので、aはたくさんあるうちの一つなのです。
theを使うときは?
theを使うのはどんな場合なのでしょうか?theを使う場合は
- 話題に上がっているなどの前提があるとき
- 世界に一つしかないものについて述べるとき
- 楽器を演奏するというとき
などです。一つずつ見ていきましょう。
1,話題に上がっているなどの前提があるとき
話題に上がっているなどの前提があるときというのは、
上でも説明したような「わざわざ言わなくても分かるだろ!」
という場合です。
2,世界に一つしかないものについて述べるとき
世界に一つしかないもの(固有名詞)にもtheを付けます。世界に一つしかないものの例として
- 太陽(the sun)
- ルーブル美術館(the Louvre)
- 地球(the earth)
などが挙げられます。
theというのは言わなくても特定できるときに付きますよね。なので、
世界に一つしかない=言わなくても特定できるからa が付く
です。
3,楽器を演奏すると言うとき
楽器を演奏するというときもtheを付けます。
ピアノを弾く=play the piano
ギターを弾く=play the gutar
となりますね。
ではなぜtheを付ける必要があるのでしょうか。答えは
- 大体の楽器の形は説明しなくても伝わるから
- 選択肢の中でthe が一番自然なニュアンスだから
の二つです。
大体の楽器は説明しなくても伝わるからということについて考えてみましょう。。仮にあなたが今
「I play the gutar every day.」(私は毎日ギターを弾いてます)
と言われたらこの画像のような楽器を思い浮かべるでしょう。
おもちゃのギターを思い浮かべた人はいないですよね。このように楽器には一般的な形があるので
the=言わなくても分かるというときに使う
という法則に当てはまるのです。
ここまでの話を聞いて
「なんで play a gutarや play gutarsだとダメなの?」
と思った人がいるかもしれません。play a gutarだと
「他のギターは弾けないけど、このギターだけは弾けるんだ。」
という意味合いになります。a=たくさんある中の一つだからですね。なので、play a gutarは不自然ですね。
もう一つの選択肢 play gutarsは
「世の中の大半のギターは弾けるんだけど、引けないギターもあるかも…」
という意味合いです。名詞にsが付くと、大半の物という意味になります。話し手は単に
「私ギター弾けますよ」
と言いたいだけなので、sを付けるのはまずいですね。
以上のことから
楽器を演奏する=play the~
が一番自然といえます。
a(an)を使うときは?
それでは、aが付くのはどんな時でしょうか。aが付くのは「言わなくても分かる」という前提が何もないときです。
例えば、私=生徒と言いたいとします(話題には全く上がっていません)。
1, I am a student.
2, I am the student.
1か2どちらが正しいでしょうか。
もちろん1番ですね。たとえ世界に自分だけしか生徒がいないとしても、話題に上がっていなければ”a”を使います。
ちなみに、aにはstudentsのような複数形はつけられません(theはOK)。
✕ a students
〇 the students
aとanの使い分け
直後の名詞が母音の発音で始まる場合は”an"です。母音の発音というのはa i u e o(あいうえお)の発音のことですね。
なので、an apple an octpus になります。注意点として、文字がa i u e oでもあいうえおと発音しないときは”a~"です。
例: a university(ユニバーシティ) a uniform(ユニフォーム)
番外編 冠詞ってどんなもの?
冠詞の働き
冠詞(a,the)はどういった働きをするものなのでしょうか?冠詞というのは名詞の直前に付いて、後ろの名詞の性質を予想させるものです。名詞の性質を予想させるというのはプレゼントの箱や包装紙のようなものです。
少しイメージしてみましょう。あなたは人からプレゼントをもらったとします。
包装紙に包まれたプレゼントを見て、
「嬉しい、何が入っているのだろうか?」
とワクワクしますよね。そしてプレゼントの大きさや重さから何が入っているかなんとなく分かるかもしれません。
このように、冠詞はその後を予測させる力があります。
冠詞に何もつかないときもある
大体名詞には何か冠詞が付きますが、何もつかない時もあります。例えばwater(水)やnature(自然)など区切りがはっきりして数えられないですよね。
数えられない名詞の時にはaもtheも付きません。
まとめ
いかがでしたでしょうか。今回はaとtheと違いについて解説しました。内容をまとめると
- aとtheはどちらも一つのものを指すときに名詞の前に付ける
- theを使うときは言わなくても分かる時
- aを使うのは言わないと分からない時
です。
今回学んだことを生かして、文法の凡ミスを減らしてみてくださいね。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
世界史の流れが分かる古代オリエント完全版
皆さんこんにちはルリアゲハです。世界史を勉強していると、最初の方に習う古代オリエント史。正直に言って、
- 民族の名前
- 文明や国の名前と場所
- それぞれの文明や国の政治体制や特徴
- 歴史の流れ
などをたくさん覚えないといけないので、面倒ですね。
「覚えることが多すぎるし、流れも分からない。何とかならないのだろ うか…」
と悩んでいる方も多いのではないでしょうか。
大丈夫です。この記事を読めば
について理解できます。
古代オリエント
古代オリエントは前6000年にオリエントで起こった文明です。オリエントというのはヨーロッパから見て太陽が昇る所(東)という意味です。
ちなみにオリエントというのは現在の中東ですね。
多くの民族が活躍 メソポタミア文明
メソポタミア文明はティグリス川とユーフラテス川の内側の地域で起こった文明です。
ティグリス川が東で、ユーフラテス川が西ですね。
メソポタミアには山脈、海、砂漠といった天然の要塞がありません。
なので、平坦な土地に多くの民族が登場します。覚える側にとっては厄介な話ですね。
シュメール人
最初に高度な文明を作ったのはシュメール人です。それまで文明は小さな村落でしたが、都市国家へと変わって行きました。彼らが使った文字も解読されていて、都市国家の名前がウルやウルクだったことも分かっています。前3000年頃の言葉が分かっているのはすごいですね。
また、シュメール人は王が神権政治を行っていました。神をまつるための巨大な建造物ジッグラト(聖塔)が現在まで残っています。
そんなシュメール人の都市国家は、前24世紀にアッカド人によって滅亡しました。
アッカド人
シュメール人の都市国家を滅ぼしたアッカド人。彼らはメソポタミアやシリアの都市国家を統一し、大きな領域国家を作ります。
しかし、アムル人という民族にとって代わられました。
アムル人
アムル人はバビロン第1王朝(古バビロニア王国)を建国しました。古バビロニア王国というのは、バビロンを都とした最初の国ということです。アッシリアという国が分裂後、同じバビロンを都とした新バビロニア王国ができます。
バビロン第一王朝といえば、ハンムラビ王のハンムラビ法典が有名ですね。
「目には目を歯には歯を」
という言い回しは知っているのではないでしょうか。このハンムラビ法典の特徴は
- やられた以上にやり返してはならない(復讐法)
- 身分によって刑罰が異なる
です。
楔形文字による成文法ができたバビロン第1王朝でしたが、ヒッタイト人によって滅亡します。
ヒッタイト人
ヒッタイト人はバビロン第一王朝を滅ぼした最強の民族です。最強の秘密は
- 初めて鉄製の武器を使用
- 馬や戦車も使用
したこととされています。
ヒッタイト人は小アジア(現在のトルコ)に拠点を構えながら、バビロン第一王朝だけでなく、エジプト(新王国)にも攻めました。
しかし、謎の民族「海の民」によって滅ぼされます。
ナイルの賜物 エジプト文明
エジプト文明ができたのはメソポタミアの少し後でした。エジプトは定期的なナイル川の氾濫によって発展していきます。氾濫によって、上流から農業に最適な土が流れてききました。
エジプトはファラオという王が神権政治をします。それではエジプトを古王国、中王国、新王国に分けて見ていきましょう。
ピラミッド 古王国
エジプトの古王国はピラミッドが多く作られたことで有名です。ピラミッドといえば、この写真のような巨大で精密な建造物ですよね。
異民族により混乱 中王国
中王国は異民族に翻弄された王朝です。中王国末期に遊牧民のヒクソスが流入して国内が大混乱しました。
最盛期 新王国
エジプト文明で最も栄えたのは新王国です。
中王国末期に入ってきたヒクソスを追い払って、国ができます。
新王国で覚えておきたいファラオはアメンホテプ4世(イクナートン)です。アメンホテプ4世は急激な改革をいくつもします。その例として
などです。
エジプトは多神教だったのですが、アメンホテプ4世は
「アトン神だけを信仰しろ!他の神は信じるな!」
と言いました。そして、自らをイクナートン(アトンに愛された者)と名乗ります。
さらには遷都も行いました。
これらの政策は多くの反発を生み、彼の死後は多神教に戻りました。
ちなみに彼の次のファラオは、あの黄金のマスクで有名なツタンカーメンです。
東地中海の民族
東地中海の沿岸(現在のシリア、パレスチナ)には三つの民族がいました。その理由は、東地中海沿岸は重要な交易の拠点だったからです。
ここでは東地中海に住んでいた民族、アラム人、フェニキア人、ヘブライ人を紹介します。アラム人とファニキア人は、覚えるときに
「どっちが内陸交易で、どっちが海上交易だったけ?」
となりがちです。何度も繰り返し唱えて記憶に定着させましょう。
内陸交易 アラム人
アラム人は内陸交易を行いました。
彼らの使っていたアラム文字は西アジア各地に広がります。主に拠点としたのは後にウマイヤ朝の都となったダマスクスです。
海上交易 ファニキア人
同じく交易を行ったファニキア人は、海上交易で活躍します。
商売を行う過程で、地中海各地に多くのファニキア人都市を作りました。中でも有名なのは、ローマ帝国の歴史に登場するカルタゴです。カルタゴはローマと戦争しますね。
もう一つ有名なのは、フェニキア文字です。フェニキア文字はアルファベットの起源とされています。アルファベットを見たことも書いたこともないという人はいないですよね。
フェニキア文字はギリシアに伝わって、ギリシア文字となります。α(アルファ)やβ(ベータ)、Δ(デルタ)というのはギリシャ文字ですね。そのギリシア文字がアルファベットとなっていきます。
ユダヤ教 ヘブライ人
ユダヤ教を生み出したことでも有名ですよね。
ユダヤ教は
などで有名ですね。しかし、数々の苦難が成立の背景にあるというのは押さえておきたいポイントです。
苦難を時系列順に並べると
エジプトで迫害される(この時、ヘブライ人たちを引き連れたのはモーセ)
↓
自分たちの国を作るが分裂
↓
分裂した国も滅亡
↓
新バビロニアからバビロン捕囚を受ける
などです。
苦難の連続が、選民思想などの要素を含んだユダヤ教へ影響を与えたというのは大事ですね。
オリエント統一そして分裂
ついに達成されたオリエントの統一。しかし、厳しい統治が分裂を招いてしまいます。
アッシリア
初めてオリエントを統一したのはアッシリアという国です。アッシュル=バニパル王という王の征服活動により達成されました。
しかし、厳しすぎる統治がアッシリアを短命にしてしまいました。
具体的には
「俺に逆らった民族は根絶やしにしてやる!」
というスタンスですね。そのあまりの残酷さから、多くの反発の声が生まれました。そうして反乱が起こって、4つの国に分裂しました。
4つに分裂
アッシリアが分裂してできた国は
エジプト、リディア、メディア、新バビロニア
です。
最終的にこの4国を統一するのはアケメネス朝ペルシアです。
寛容で中央集権的 アケメネス朝ペルシャ
再びオリエントを統一したのはアケメネス朝ペルシアという国です。厳しすぎる統治で滅んだアッシリアを反面教師にし、寛容な政治をしました。
3代目のダレイオス1世はサトラップ制で広大な領土を中央集権的に管理します。この時の領土はインドの北東部からギリシャの北東までありました。
その領土を郡に分けて、サトラップという知事を置きました。知事が反乱を起こそうとしていないかを監視する監視官(王の目、王の耳)も置きます。そうして中央集権的な国を作りました。
しかし最終的に、アレクサンドロス大王により滅ぼされます。
アケメネス朝ペルシア滅亡後
アケメネス朝ペルシアが滅亡した後の流れはこんな感じです。
アレクサンドロス大王の大帝国
↓死後
3つに分裂
↓
パルティア(中国名:安息)
↓
ササン朝ペルシヤ
ササン朝ペルシャ
ササン朝ペルシャはパルティアを倒して西アジアに成立した国です。都はクテシフォン、国教はゾロアスター教(拝火教)と定められます。
帝政ローマや東ローマ帝国と並ぶ強国で、長い間抗争を繰り広げます。
この抗争が、イスラーム教の聖地メッカやメディナが発展するきっかけになりました。
そうして、生まれたイスラーム教徒と戦うこととなり(ニハ―ヴァントの戦い)、ササン朝ペルシャは敗北します。その結果、滅亡しました。
まとめ
いかがでしたでしょうか。今回はメソポタミア文明からササン朝ペルシャまでの古代オリエントを簡単にまとめました。
古代オリエントの流れをつかんで、高得点を目指してみてくださいね。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
(世界史)超わかりやすい周王朝 中国史
皆さんこんにちはルリアゲハです。世界史で中国史を勉強していると周という王朝が出てきますよね。周って結構長くて覚えられないと悩んでいる方もいるかもしれません。
そこで今回の記事では周王朝を超丁寧に解説していきます。この記事は
を押さえたい人におすすめです。
周王朝とは
周王朝は中国史で殷の後に中国を支配する王朝です。前後の王朝を図で表すとこうなります。
ちなみに
- 殷や秦はどんな王朝だったか
- 中国史全体の流れを知りたい
という方はこちらがおすすめです。
周は前半の鎬京に都があった時代(西周)と後半の洛邑に都があった時代(東周)に分けられます。東周は春秋戦国時代があって周の権威が弱体化した時代です。
家族が大事 周の統治体制
周は封建制で中国を統治しました。封建制というのは王が血縁者に土地を分け与えて統治させるシステムです。図で表すとこんな感じになります。
土地を与えられた血縁者は諸侯となって世襲制で土地と民を統治しました。なので大きな家族で国をまとめたと言えますね。
周の支配層には卿・大夫・士(けい・たいふ・し)の三つの階級がありました。三階級とも王や諸侯の家臣です。支配層たちの中では家柄を重んじており、氏族(自分たちの父方の一族)を重視していました。氏族をまとめるために、家ごとに宗法というルールを作ります。
遷都→春秋戦国時代へ
しかし、前8世紀に周の都である鎬京は異民族から攻撃されます。その結果、東の洛邑に遷都しました。
遷都をきっかけに諸侯たちは
「異民族から逃げて遷都するなんて、周は情けない」
と思い始めた結果、起こったのは周の権威の低下です。
その後長く続く混乱と分裂の時代、春秋戦国時代が始まります。ここでは春秋時代と戦国時代に分けて見ていきましょう。
王を守ろう 春秋時代
春秋時代は最も強い諸侯(覇者)を決めるため争った時代です。”春秋”というのは孔子の歴史書『春秋』から名付けられます。
尊王攘夷(外国勢力を追い払って王を守ろう)を名目に覇者の座を争ったので、この時点では周王は尊ばれていました。
斉・晋・楚・呉・越(せい・しん・そ・ご・えつ)の五つの国です。
王になろう 戦国時代
戦国時代はそれぞれの諸侯が王を自称して、中国を統一のため争う時代です。最有力の覇者晋が家臣に乗っ取られたが戦国時代になるきっかけでした。乗っ取られた晋は
韓・魏・趙(かん・ぎ・ちょう)の三つに分裂します。
そうして、下克上(立場が下の者が上の者を打ち倒す)という風潮ができたのです。
なんだか日本史の戦国時代のようですね。ちなみに日本史の戦国時代は周の戦国時代から名付けられます。
春秋時代では一応尊ばれていた周王は、戦国時代になると完全に無視されました。国力を高めて、強国となったのは戦国の七雄でした。戦国の七雄は
秦・斉・燕・楚・韓・魏・趙(しん・せい・えん・そ・かん・ぎ・ちょう)
という国です。
最終的に、国力を上げることに成功した秦が中国を統一しました。周は秦によって滅亡します。
社会の変化
分裂と混乱の時代だった春秋戦国時代には、多くの変化がありました。どんな変化があったかというと
- 農業生産力向上→氏族の力が弱体化
- 青銅貨幣による商業の発展
- 諸子百家が活躍
です。
農業生産力向上→氏族の力が弱体化
一つ目の農業生産力向上は、鉄製農具と牛が農業に使われるようになったからでした。頑丈な鉄製農具と力の強い牛の力で土地を耕します。
その結果、少人数でも農業ができるようになりました。以前より簡単に農業ができるようになったので、一族全員でやらなくていいですよね。そうして、氏族の力は弱まりました。
また、農作物が余ること(余剰生産物)が起こります。余剰生産物を売るという概念が生まれ、次で紹介する商業の発達へ繫がります。
青銅貨幣による商業の発展
二つ目に起こったのは商業の発達です。農具に使われていた青銅を使って、青銅貨幣が生まれます。青銅貨幣には刀銭、布銭、半両銭がありました。
それぞれの形は
刀銭=刀の形
布銭=農具の形
半両銭=今の五円玉のような形
です。
貨幣が普及したそれぞれの国では、余剰生産物を追い風にして商業が発展しました。
諸子百家の活躍
春秋戦国時代は諸子百家(独創的な思想を説く人たち)が活躍します。混乱の時代に求められたのは、独創的な思想です。
「まとまった国を作るにはどうしたらいいだろう?」
「戦いに勝つにはどうすればいいのか?」
などはこの時代の王の悩みでした。
その悩みを解決してくれる諸子百家は大いにもてはやされます。
諸子百家で有名なのは孔子が祖となった儒家ですね。孔子は仁と礼(思いやりの気持ちを持つことと行動に移すこと)、そして上下関係の重要性を説きます。孟子や荀子がさらに教えを発展させました。そうして、後世に大きな影響を及ぼす儒学が生まれました。
他にも諸子百家は
などがいました。
もっと詳しく諸子百家について知りたいという方は、こちらがおすすめです。
まとめ
いかがでしたでしょうか。今回は周王朝の
- 政治体制
- 宗族
- 春秋戦国時代
- 社会の変化
について解説しました。
今回の記事を参考に世界史の勉強を頑張ってくださいね。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
本気で英語ができるようになりたい人へ送る英語を学ぶメリット7選
皆さんこんにちはルリアゲハです。
あなたは英語って何のために学習するのかと疑問に思ったことはありませんか。こう聞かれると、多くの人は
「英語が話せるとなんとなくかっこいいから」
「好きな洋画や洋書を原文で理解できるようになりたいなあ」
「英語ができるようになって、みんなに褒められたい」
「英語ができた方が給料が上がるからです!」
などと答えるかもしれません。これらの理由だと諦める理由がすぐに見つかってしまいます。
英語を学習するには
- 膨大な時間やお金
- 継続すること
が必要です。なので、自分にとって替えの利かない理由がないと、英語を学ぶ苦労を乗り越えられないですよね。
この記事は
- 自分の英語学習を続ける理由が見つからない
- 英語学習がつらくて諦めようかと悩んでいる
- 翻訳機があるんだからわざわざ英語を学ばなくても大丈夫と思っている
- 英語を苦労して学んだ先には何があるのか知りたい
という人にはおすすめです。さあ、この記事を読んで決してぶれない軸を手に入れましょう。
- 1,英語を話せる人たちの仲間になれる
- 2,世界中の人と対等な人間関係を築ける
- 3,質の高い情報がより多く手に入る
- 4,井の中の蛙状態から脱却できる
- 5,海外旅行がより楽しくなる
- 6,英語以外の外国語を学びやすくなる
- 7,日本以外に住む選択肢が生まれる
- まとめ
1,英語を話せる人たちの仲間になれる
英語をネイティブスピーカーと同じぐらい話せると、英語のネットワークに入れます。英語のネットワークというのは世界中の英語を話す人々の繋がりのことです。
世界には英語の話者が約15億人います。日本語だと1億2700人ほどなので、圧倒的な差がありますね。
つまり英語の話者になれば、日本語しか話せない人に比べると
- 勉強
- 仕事
- 人間関係
などの可能性が大きく広がります。
2,世界中の人と対等な人間関係を築ける
英語がペラペラになると、世界中の人たちと対等な人間関係を築けます。
これは翻訳機ではできません。
なぜ対等な人間関係が大事なのかというと
「相手と対等になれないと、馬鹿にされたり、搾取されるから」
です。対等でなければ、仲間や友達になれないということですね。
例えばあなたは海外へ留学に行ったとします。そして、外国人の友達を作りたいと思いました。
英語ペラペラな外国人にとって英語のできないあなたはよそ者です。もしあなたがすごく良い人と巡り合えたら、親切にしてくれるでしょう。でも、仲間ではないあなたに本当に大事な話はしてくれないかもしれません。
そして、全員が親切にしてくれるとはかぎらないです。英語ができないあなたを騙したり、馬鹿にしてくることもあり得ます。
そのリスクを軽減するには、英語を話せるようになるのがベストです。そういう意味でも英語が話せる人と話せない人は、本当の意味で平等になれないのです。
英語を話せるようになる=世界中の人と真の仲間になるチケットが手に入ると言えます。
3,質の高い情報がより多く手に入る
英語を使えると、日本語で情報収集をするよりも質の高い情報がより多く手に入ります。世界中の人に知ってもらおうとすると、英語で情報を発信するのがベストだからです。なので情報量は必然的に増えます。
例えば、あなたは新しいアイディアを見つけました。そのアイディアをより多くの人へプレゼンしたいです。次のAとBのどちらの会場で発表したいですか。
会場A 50人に伝えられる
会場B 1000人に伝えられる
もちろん会場Bですよね。前にも言ったように英語の話者は約15億人で、日本語は1億2700人います。英語ができると、さっきの例で例えたより大きな会場でプレゼンできるのです。
「え、私情報を発信しないから…」
と思った方もいるかもしれません。情報を受け取る側はより最新の情報をより多く手に入れることができます。洋画でも海外で公開されて何年後かに日本でも公開されますよね。
英語ができた方が今の時代に最も価値がある情報という面で他の人をリードできるのです。
4,井の中の蛙状態から脱却できる
英語ができると視野が大きく広がります。
なぜなら、実際にたくさんのことを自分で体感できるからです。自分自身で体感した結果、新しい情報や経験、アイディアが生まれます。これらは形がないですが、大事な財産です。
例えば、
- 日本の良い所と悪い所
- 海外の文化の特徴
- 海外で出会った人たちはどんな生活をして、どんな考えを持っているか
- 日本の常識と海外の常識の違い
などです。
ここで、
「そんなの今どきネットで調べられるじゃないか」
と思った方もいるかもしれません。この疑問に対して私は、
「本当に信じられるのは自分自身で見たり、体験したものだけである」
と答えます。なぜそう言えるのかというと、
情報の発信者の経験=自分自身の経験
ではないからです。
例えば、私が今まで経験したことと、あなたの経験したことは全くの別物ですよね。自分自身の経験ではないので、どうしても情報の発信者の主観が入ったり、語り手の都合の良いように誘導されたりします。誘導というのは語り手がその経験で失敗した事実を隠したり、自分の商品を買ってもらうために、偏った情報を発信するということです。
英語を話せるようになれば、自分自身で広い世界を体感することができます。また、
- 自分にとって信憑性の高い情報
- 自分だけの経験
- 新しいアイディア
という財産を得られます。
5,海外旅行がより楽しくなる
英語ができると海外旅行がより楽しめます。
これは英語を勉強したことがある人なら、言うまでのないことですね。なので、ここでは少し違った切り口で解説します。
人は得をしたいというよりも損をしたくないと思いがちです。この場合
旅行が楽しいとか嬉しいという気持ち=得
トラブルに会ったらどうしようという不安=損
といえます。不安がより少ない方が旅行を楽しめますよね。
「それホントかよ」
と思った方もいると思います。なので、一つ例を挙げてみましょう。
例えば、あなたはある人に
「1万円をあげよう」
と言われたとします。その後
「もし1週間待ってくれたら、5倍の5万円をあげよう」
と言われました。すごく怪しいですが、そこは考えないでおきましょう。
あなたは
- 今すぐに1万円をもらう
- 1週間待って5万円をもらう
のどちらがいいですか?
きっと多くの人が今すぐにもらう方を選ぶと思います。
万が一その人の気が変わって1円ももらえなかったら損ですよね。
このように損をすることや恐怖が人を動かしてしまうのです。なので、旅行をして、
- 英語を話す必要があったらどうしよう
- トラブルに巻き込まれるのが怖い
という不安を和らげるためには英語を学ぶのがベストです。
6,英語以外の外国語を学びやすくなる
英語を学んでおくと、英語以外の外国語を学びやすくなります。日本だと
外国語を学ぶ=英語
というイメージが強いですよね。それだけ英語の学習教材が需要があるということです。
逆に言うと、英語以外の外国語の教材はあまりありません。大きめの書店へ行ってみても、英語に比べたら数が少ないです。あっても初心者向けのものがほとんどで、中上級者向けのものは見かけないですね。
それに対して、英語で外国語の学習素材を探すと、いろいろな学習素材を見つけられます。
また、ヨーロッパの言語に限定されますが、英語で学んだ方が
- 文法や語順
- 単語のスペルと発音
が似ていて学びやすいです。
「ヨーロッパの言語でも話者数の多いフランス語やスペイン語を学んでみたい!」と少しでも思っているのなら、英語を学んでみるのがおすすめです。
7,日本以外に住む選択肢が生まれる
英語ができると、海外に移住する選択肢を考えやすくなります。
逆に英語ができないと
「海外移住に興味があるんだけど、英語話せないからなあ…」
という感じでフットワークが重くなりますね。人は面倒なことはやらない理由を見つけてしまいがちです。大変な海外移住はよっぽどの意志がないと、やらない方へ流れていきます。
英語を話せるようになっておくと、
- 海外に住んで働いてみたい
- ネットで仕事をしながら海外に住みたい
- 日本よりも○○の雰囲気が好きだなあ
と思ったときに行動しやすくなります。今漠然と海外移住に興味を持っているという人は英語をコツコツと学習することがおすすめです。
まとめ
いかがだったでしょうか。今回は英語を学ぶメリットを7つ紹介しました。
何度も言いますが、英語を学ぶには多くの時間とお金が必要です。そして、あなたには英語以外のことに労力を費やす選択肢があります。
なんとなくの目標では労力がもったいないです。なので
- 今英語を学習している人
- 学習しようか迷っている人
は今回学んだことを参考に「なぜ英語を学ぶのか」と自分自身に問いかけてみましょう。そして、明確な目標や圧倒的なメリットを見つけてみてくださいね。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
(世界史)場所と特徴が分かる古代南北アメリカ文明
皆さんこんにちはルリアゲハです。
ヨーロッパ人がやって来る前、南北アメリカ大陸にはたくさんの文明がありましたよね。 あなたは
「この文明はどこで起こったっけ?」
「どんな文明があったっけ」
などと思っていませんか。今、私のことを言っているなと思った方も大丈夫です。
この記事を読めば
南北アメリカ文明
南北アメリカ大陸にはたくさんの文明がありました。文明があったのは前1200年頃から15世紀です。
文明ができた地域で分けると
となります。
メソアメリカは北アメリカ大陸の南のほうで、南アメリカ大陸と繋がっていますね。
もう一方のアンデス山脈周辺は南アメリカ大陸の太平洋に面した方です。
メソアメリカには主に
がありました。
また、アンデス山脈周辺にあった文明で有名なのは、インカ帝国です。
特徴
南北アメリカ文明全体の特徴を挙げると
- 青銅器文明(鉄器はなかった)
- 農耕をしていた
- 大型動物牛や馬はなし
- 高度な石造建築
- 車輪なし
です。
南北アメリカ文明はまだまだ謎が多い文明です。例えば、高度な石造建築を作るための石はどうやって運んだのかなどです。
重いものを運ぼうと思ったとします。そうすると、荷物は車輪の上に載せて牛や馬に引かせますよね。しかし、車輪はありませんでした。本当にどうやって運んだのでしょうか。
メソアメリカ文明
現在の中米あたりでできたメソアメリカ文明。今回はその中の
の四つの文明を紹介します。
オルメカ文明
オルメカ文明は前1200年ごろに、メキシコ湾岸でできました。
この記事で紹介する文明の中で一番古い文明です。なので後の文明にも影響を与えます。
オルメカ文明で有名なのは巨大人頭像ですね。巨大人頭像というのは名前の通り、人の頭の形をした像です。
マヤ文明
次のマヤ文明は前1000年から16世紀まで続く文明です。かなり長く続いていますね。どこで栄えたのかというとユカタン半島です。
「は?ユカタン半島ってどこだよ」
という方はこの地図をご覧ください。
マヤ文明では絵文字という文字やマヤ暦という暦法がありました。ピラミッド状の神殿も有名ですね。
他には二十進法という数の数え方を使用します。
二十進法は20になると桁が繰り上がる数の数え方です。現在私たちの使う十進法は10になると一つ上の桁になりますよね。二十進法はそんな感じのものです。
テオティワカン文明
テオティワカン文明はメキシコ高原に前1世紀に栄えます。メキシコ高原はここです。
宗教・商業都市として繁栄しました。
アステカ王国
アステカ王国は、テオティワカン文明のあったテオティワカンを首都として発展します。
地図でいうと点だった文明が面状になりましたね。文明の特徴は絵文字やピラミッド型の神殿があったことです。
しかし、1521年にヨーロッパから来たコルテスにによって滅亡してしまいます。
アンデス文明
南米のアンデス山脈周辺には前2千年紀から農耕文化ができました。
やがて農耕文化が発展し、多くの都市文明になっていきます。その中でここで紹介するのはインカ帝国です。
インカ帝国
インカ帝国は15世紀半ばにできた比較的新しい文明です。文明の範囲は現在のコロンビア南部からチリと広大ですね。
インカ帝国はペルーのクスコが首都でした。なので人々は標高2000m以上の高地で生活していたと言えます。有名な遺跡マチュ=ピチュも標高2430mにありますね。
インカ帝国ではキープで数を記録しました。キープというのは紐の結び目の形や色で数を表して記録するものです。
文字はなかったので、まだまだインカ帝国の全貌は明らかになっていません。
そしてインカ帝国は1533年にヨーロッパからやってきたピサロによって滅亡してしまいます。
まとめ
いかがでしたでしょうか。今回は南北アメリカ文明について解説しました。
南北アメリカ文明は
- どの文明がどこにあった
- それぞれの文明の特徴
は押さえておきましょう。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
(プロフィール)高校生で人生の半分以上を英語に費やしたブログ運営者紹介
皆さんこんにちはルリアゲハです。この記事までたどり着いていただきありがとうございます。
このブログでは学生向けに使える英語力と歴史の知識を身に着けて、自分の価値観で生きられるようになる発信をしています。私は現在高校生で人生の半分以上を英語に費やしてきました。
きっとこの記事に着いたあなたは、いくつかの記事を読んで、
「このブログの運営者はどんな人なんだろう?」
「経歴は?」
「なぜこのブログを開設したの?」
などと思っているかもしれません。そこで今回はその疑問にひとつひとつ答えていきます。
簡単な自己紹介
ここまでたどり着いたあなたはある程度私のことを知っていると思います。ですが改めて自己紹介をさせてください。
改めて、私はルリアゲハといいます。
自分の経歴をまとめてみると
◇高校生
◇英検2級
英語学習年数:十数年
幼い頃から英会話教室に通う→中学の頃、歴史の楽しさに気付く→高校は英語特化コースへ→現在は得意教科の英語と歴史(世界史)をブログで発信
という感じです。タイトルの高校生で人生の半分以上を英語に費やしたというのは十数年英語を学習し続けたということです。
また、私は現在英検準一級に向けて励んでいます。
ちなみに、趣味は読書と音楽を聴くことです。
私のツイッターアカウントはこちらです。
ルリアゲハ@高校生ブロガー (@Ruriiiageha) | Twitter
なぜブログを始めた?
私がブログを始めた理由は自分のコンテンツを作って、多くの人に見てもらいたいと思ったからです。
私は幼い頃からあまり学校や周りの人たち、周りの環境があまり好きではありませんでした。なぜかというと、同調圧力が大嫌いだったからです。
そのとき、自分の周囲とは違う世界を見れる勉強や読書は楽しいということに気づきました。YouTubeでたくさんの音楽を聴くことにも夢中になります。
そのうちに、自分もいつか自分がYoutubeで見た人たちのように素晴らしいコンテンツを作って発信したいと漠然と考えました。
そんな私が高校に入って、最初に思ったのは「なんでこの学校に入ったのか」ということです。そう思うほど学校の雰囲気に合わなかったのです。
いろいろと挫折してどうしようと悩んでいる時、ネットでブログを始めるという選択肢を見つけました。詳しく調べると、
- 低コストで始められる
- ビジネス感覚やSEO(検索最適化)の知識が身に着く
- 文章力が上がる
- 収益化を目指せる
などと紹介されていました。中でも一番惹かれたのは自分のコンテンツを作って、多くの人に見てもらえる点です。昔から憧れていたことができるとわかって、ブログを始めようと決心します。
決して楽な道ではないですが、今も頑張り続けています。
このブログが目指す未来
このブログが目指す未来は「より多くの人が、勉強することによって、自分の価値観で自由に生きられる世界にする」ことです。
そのために、このブログを訪れる人に使える英語と歴史の知識を提供することで達成していきます。
ここで
「なぜ自由に生きるためには勉強する必要あるのか?」
と思った方がいると思います。私は、この疑問に対する答えは
「勉強ができる人と本当の意味で対等になるため」
だと考えています。私が思うには
勉強ができる人=社会で偉いとされている人や成功者
です。その人たちと対等になれないと、その人たちにとって都合のいいように扱われ、搾取されます。そうして自由に選べる選択肢を失っていくのです。
自分の価値観で自由に生きるには学び続けるのが一番です。学び続けないと人は退化するし、学ぶか学ばないかで豊かな人生が送れるかが決まります。
豊かな人生=自分の価値観で自由に生きられる人生
です。
なので私はこのブログを通じて、自分が学びながら、多くの人が自由に生きられるお手伝いをしていきます。
あなたへ
今あなたは「今が一番楽しい、他にはもう何もいらない」と自信を持って言えますか。中には今の環境が最悪すぎて、何もかも諦めたいと思っている人もいるかもしれません。
それでも勉強することだけは諦めないでください。なぜなら、正しい勉強は絶対に裏切らないし、あなたの中から無くなったりもしないからです。
苦しい現状を変えて、自由で幸せな暮らしをしたい。将来、成功者になって、金持ちになりたい。そう思う人は明日からではなく今日から勉強した方がいいです。
「そうは言っても何から学んだら良いのだろう?」
と思った人へ自分のすべきことの見つけ方のヒントを教えます。
人はファンか友達にしかなれないのです。ここでいうファンは対等ではない関係で、友達は対等な関係の人たちのことです。
あなたはどんな人たちと友達になりたいですか?
友達になりたいと思う人がしていることが、あなたの学ぶべきことです。
このブログは、勉強で自分や周囲の環境を変えたいというこのブログが目指すあなたの味方です。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
(世界史)中国史の覚えておきたい用語5選
皆さんこんにちはルリアゲハです。世界史で中国の歴史を勉強していると儒学や科挙などの用語や中華思想などの思想がよく出てきますよね。これらがわかると世界史の中国史を理解しやすくなりますよ。
あなたは易姓革命、中華思想、儒学、科挙、宦官について全て説明できますか?出来ないという方も大丈夫です。
この記事を読めば
が説明できるようになります。
易姓革命
易姓革命というのは中国の王朝交代を説明する理論です。周王朝の時に生まれました。
どういう理論かというと天命を受けて新たな有徳者が国を治めるという理論です。
わかりやすく言うと、支配者にふさわしい人に
天は
「国を治めなさい」
と命令を下して国を治めさせます。天に選ばれた支配者が亡くなると、一族の中から後継者を選んで国を存続させました。そして、その国の支配者が支配者としてふさわしくないと天が判断します。そうすると、今度は新しい人を見つけて支配者に任命します。
この思想が生まれた周は前の王朝を倒してできた王朝でした。なので支配を正当化するため
「自分たちの一族は天に支配者として選ばれた一族だ!」
と主張しました。
易姓革命の考えは周の後の王朝も採用し、国を治める一族が変わると王朝名が変わるという伝統ができました。
中華思想(華夷思想)
中華思想は自分たち漢民族は他に比べて文化的に優れているという思想です。易姓革命と同じ周の時代に生まれました。中国は世界の中心だという思想は歴代王朝の外交に影響を及ぼしました。
例を挙げると、冊封体制やそれに基づいて行われた朝貢貿易です。冊封体制は周辺諸国は中国に貢物を持ってきて、中国は貢物をくれた国に返礼品などを与える朝貢貿易で成り立った外交関係のことです。
東アジアでは長い間中国と周辺諸国が、冊封体制によって主従関係を結んで国際秩序を保ちました。
儒学
儒学は孔子によって生まれた仁と礼(周囲に思いやりの心を持って行動する)や上下関係を重んじた思想です。
周王朝の春秋戦国時代に生まれました。諸子百家の一人である孔子の後に、弟子の孟子や荀子によってさらに発展していきます。
諸子百家について詳しく知りたい方はこちらがおすすめです。
周の次の王朝秦では弾圧されます。しかし、秦の次の漢以降では国をまとめるために官学化しました。
科挙
科挙というのは隋の時から清(598~1905年)まで行われた、官僚登用試験です。
家柄でなく実力で官僚を採用するために行われます。科挙は
- 王朝によって出題される部分が少し異なる
- モンゴル人王朝の元ではあまり行われなかった
というのが特徴です。
試験の内容は四書五経という書物が中心でした。
試験に合格するには、膨大な量の四書五経を完全暗記することが求められます。まさに超過酷な試験ですね。合格すれば莫大な権力と富が手に入るので、倍率がピーク時には3000倍になりました。なのでカンニングが横行します。
家柄でなく実力で官僚を選ぶという試験だったので、男性ならだれでも受験できました。しかし、実際に合格するのは学習環境を充実させられる経済的に裕福な層ばかりでした。
宦官
宦官は宮廷で働く去勢された男性です。主に皇帝の身の回りの世話などをしました。身分は低かったですが、皇帝の側にいたので、政治的に権力を持つこともありました。
有名な宦官は漢の蔡倫(さいりん)や明の鄭和(ていわ)です。蔡倫は製紙法を改良したことで有名ですね。もう一人の鄭和は明の永楽帝に重用され、南海遠征を指揮しました。
まとめ
今回は世界史の中国史を理解するのに、特に重要な用語をピックアップして紹介しました。中国史はとても長いので、最初の方に出てきた用語はあやふやになってしまいがちです。
今回の記事でとりあげた
は絶対押さえておきましょう。
最後までお読みいただきありがとうございました。
(世界史成績アップにつながる)大航海時代って何?超丁寧に解説
皆さんこんにちはルリアゲハです。高校で世界史を勉強すると、大航海時代ってありますよね。ヨーロッパ社会を大きく変えたと言われますが、いったいどんな変化があったのでしょうか。
わからないという方も大丈夫です。この記事を読めば
について理解できます。
大航海時代って何
大航海時代というのは15~16世紀にかけて行われました。大航海時代は遠洋を航海し、新しい航路を見つける時代です。
レコンキスタで出来たばかりのポルトガルとスペインを中心に行われました。
始まった理由
大航海時代はなぜ始まったのでしょうか。その理由は主に三つあります。
地中海を通さずに香辛料を手に入れる
大航海時代の目的の一つは地中海を通さずに香辛料を手にいれることです。香辛料は肉をおいしく長期保存できる優れものでした。
大航海時代の前はアジアの香辛料は、イスラームを経由した地中海貿易で手に入れていました。しかし、アナトリア半島にオスマン帝国が台頭すると、地中海はオスマン帝国が支配するようになります。
そうすると、香辛料の値段を上げられたりします。それでも香辛料を求めるヨーロッパの人はたくさんいました。なので直接アジアから船で香辛料を手に入れようと、新航路を開拓します。
キリスト教を布教
二つ目の理由はキリスト教(カトリック)をヨーロッパの外へ布教するためです。
大航海時代の頃は教皇の権威が下がったり、教会の堕落などでカトリックはピンチでした。同時代には宗教改革も起こりますね。
ピンチを脱するため、カトリックの国であるポルトガルやスペインはアジアや新大陸へ布教しに行きます。日本にも戦国時代にザビエルなどのたくさんの宣教師が来ますよね。日本の戦国時代とヨーロッパの大航海時代は同時期でした。なので戦国時代の日本には布教のため多くの宣教師が訪れました。
羅針盤が改良された
三つ目の理由は羅針盤の改良です。羅針盤というのは陸の見えない大海原でも方位を示してくれる道具です。中国で生まれ、イスラーム世界を通じてヨーロッパへ伝わります。ほぼ同時に起こったルネサンスで改良され、遠洋航海が可能となりました。
なぜポルトガルとスペインが中心となった?
なぜ大航海時代は数多くのヨーロッパの国の中で、ポルトガルとスペインが中心となったのでしょうか。その答えは単に地理的に大西洋への航海がしやすいだけではなく、どちらの国も中央集権的だったからです。
中央集権国家だと何が良いかというと、船を出すための資金を集めやすかったことです。船を出すためには莫大な資金が必要でした。具体的に言うと、造船費や長い航海に必要な食糧費、多くの乗組員を雇う費用などですね。国としてまとまっていれば、国の事業として行えたので資金調達が比較的簡単でした。
ポルトガルとスペインはイスラームからイベリア半島を取り返すレコンキスタで成立しました。
レコンキスタでは土地を取り返すために戦う必要があります。なので、イスラームとの闘いに勝つために国は王を中心に一致団結していきました。そういった背景からポルトガルとスペインは他のヨーロッパの国よりも先に中央集権化か進みました。
これらの理由からポルトガルとスペインがどんどん新航路を発見していきます。
インドへの航路そして世界一周
ポルトガルがインドへ
香辛料が集まるインド方面へ先に行ったのはポルトガルです。
とバトンを繋ぐようにインドへの航路を開拓します。
最初のエンリケはポルトガルの王子です。航海活動を積極的に支援したので「航海王子」と呼ばれています。しかし、本人は船酔いが酷かったので船にはほとんど乗らなかったそうです。彼の送った艦隊はアフリカ西岸まで到達しました。
その次のバルトロメウ=ディアスはアフリカ大陸南端に到達します。この場所はポルトガル王ジョアン2世によって喜望峰と名付けられます。
喜望峰は「峰」と名前に付いているのに山ではありません。どちらかというと岬です。ジョアン2世はこの場所を「Cape of Good Hope」(希望の岬)と付けました。なのに日本語で喜望峰と呼ぶのは不思議ですね。
そしてついにヴァスコ=ダ=ガマがインド東回り航路を開拓しました。ヴァスコ=ダ=ガマはインドのカリカット上陸し、少量ですが香辛料をヨーロッパに持って帰ります。
マゼランの世界一周
史上初の世界一周を達成したのはマゼランです。
スペイン王のカルロス1世が彼を援助します。カルロス1世は神聖ローマ帝国の皇帝も兼任しており、神聖ローマではカール5世でした。
マゼラン一行は
大西洋→南アメリカ大陸の南端(現在のマゼラン海峡)→太平洋→インド洋
というルートで世界一周を成し遂げます。
しかし、マゼラン本人はフィリピンで戦死してしまいます。なので最終的にスペインに帰ってきたのは、マゼランの部下でした。
新大陸へ
ついに、現在は南北アメリカ大陸と呼ばれている新大陸にヨーロッパ人がたどり着きます。最初に新大陸にたどり着いたのはスペインから援助を受けたコロンブスでした。なので、コロンブスの後はスペインが中心となってアメリカ大陸の探検をします。
コロンブス
初めて新大陸に到達したのは、イタリア出身の航海士コロンブスです。当時のイタリアはルネサンス真っ只中で、最新の学問や芸術が集結していました。ルネサンスって何だったけという方にはこちらがおすすめです。
そんな中コロンブスはトスカネリの地球球体説に感銘を受けます。地球球体説は簡単に言うと
「地球は平らではない。球体だ!」
という説です。当時はまだ誰も世界一周してなかったので、本当に地球が球体なのかは分かりませんでした。
コロンブスはこの地球球体説を基にして
「もし地球が球体ならば、大西洋をずっと西に行くとインドに行ける!」
と考えました。
コロンブスはこのアイディアを、スペイン女王イサベルにプレゼンしにいきます。これは、ポルトガルに先を越されていたスペインにとっては絶好のチャンスでした。なので、スペインはコロンブスに資金を出すことにします。
スペインを出発したコロンブス一行は70日かけてバハマ諸島のサンサルバドル島に到達しました。サンサルバドル島はカリブ海に浮かぶ島で、現在の西インド諸島にあります。
コロンブスはこの後3回新大陸に行きますが、最後まで新大陸を”インド”と誤認しました。
アメリカ大陸の探検
コロンブスの後、カブラルやアメリゴ=ヴェスプッチがアメリカ大陸の探検をします。
ポルトガルのカブラルは現在のブラジルに行きます。そして、アメリゴ=ヴェスプッチはコロンブスが行った場所は新大陸だったと確認します。
征服
大航海時代はヨーロッパにとっては輝かしい歴史でしたが、先住民たちにとっては暗黒の時代でした。
具体的にはヨーロッパ人に征服されたことですね。
例えば南北アメリカ大陸には独自の文明がありました。南北アメリカにあった文明を詳しく知りたい方は、こちらがおすすめです。
しかし、ヨーロッパ人が来ると、
文明の滅亡
先過酷な労働を強いられる
征服活動や感染症による人口の激減
などの苦難が先住民たちに訪れます。
征服は主にスペインの征服者(コンキスタドール)によって行われました。コンキスタドールのコルテスはアステカ王国を、ピサロはインカ帝国を滅ぼします。
なぜこんなことをしたかというとスペインにはエンコミエンダ制があったからです。エンコミエンダ制は先住民にキリスト教を布教してくれたら、現地にいるスペイン人に土地と先住民たちの管理を認める制度です。
しかし実際にはポトシ銀山などの銀山や農園で先住民を酷使します。その結果、先住民の人口が激減します。
トルデシリャス条約
トルデシリャス条約はスペインとポルトガルが結んだ地球を分譲する条約です。南北アメリカ大陸はスペインの領土で、ブラジルとアジアはポルトガルの領土にしてよいというものでした。
大航海時代の結果
ヨーロッパから起こった大航海時代は多くの影響を世界中に与えました。主な影響は
- 価格革命
- 商業革命
- 世界中に銀が大量に出回る
- 農場領主制が拡大する
という感じです。これらの変化によって、中世の社会から近代の社会へ移り変わっていきます。価格革命や商業革命、農場領主制はパッと見て分かりづらいので少し解説しますね。
価格革命
価格革命は、新大陸から大量に銀がもたらされたことにより、ヨーロッパで物価の高騰が起こったことです。
流れを説明すると
銀が大量に出回る→銀の価値が下がる→物価上昇
です。
その結果、定額で土地代を集め続けた領主層が没落し、中世の体制が終わりを迎えます。
商業革命
商業革命は貿易の規模が世界中に広がった現象です。人々が狭いヨーロッパから飛び出した結果、広い世界中で貿易をするようになりました。
もう一つ価格革命が起こしたのは、貿易の中心の変化です。中世ヨーロッパでは、地中海貿易やバルト海での貿易が中心でした。なのでその周辺の諸都市で商業が発達します。しかし、大航海時代を迎えると貿易の中心は大西洋沿岸の地域になりました。
農場領主制
もう一つの変化は東ヨーロッパでの農場領主制(グーツヘルシャフト)の拡大です。農場領主制は領主が農奴に農業をさせるシステムです。西ヨーロッパではこの仕組みが衰退しましたが、東ヨーロッパでは拡大していきます。
その結果、西では商業をして、東では農作物を作るという分業体制が発達します。西ヨーロッパの人は、自分たちの食料はお金で買えるようになっていったのです。、これが資本主義経済の元となって行きます。
まとめ
いかがだったでしょうか。今回は大航海時代について解説しました。大航海時代は中世から近代に移り変わっていく大事な流れの一つです。なので同時期に起こったルネサンスと宗教改革と一緒に押さえましょう。
最後まで読んでいただきありがとうございました。