(ごちゃごちゃ解決) サクッと読める中国の王朝まとめ(中国史)
皆さんこんにちは。ルリアゲハです。皆さんは中国史で
「中国王朝ってどういう順番だったっけ?」
「郡県制と封建制ってどっちがさきだったっけ?」
「宋ってどんな統治をしてたのか思い出せない」
などとごっちゃになりませんか。中国史は長いですから、一度授業で習っても全然思い出せないですよね。
そこで今回は、中国文明から清までをざっくりとまとめていきます。
この記事を読めば
- 中国文明から清まで
- それぞれの成立
- 政治の特色
- 滅亡の理由
がわかります。
- 二つの中国文明
- 占いで統治 殷
- 血縁で統治 周
- 徹底的な統治で短命に
- 緩い統治から中央集権国家に 前漢
- 古臭い政治ですぐ滅亡 新
- 後漢
- 三国志で有名 三国時代
- 異民族の北と漢民族の南に分裂 魏晋南北朝
- 短期間で唐の礎を築く 隋
- 国際的な大帝国 唐
- 短期間の分裂 五代十国
- 平和で自由 宋
- 中央アジアまで支配し東西交流が活発に モンゴル帝国(元)
- 管理的に統治 明
- 長期間続く異民族の王朝 清
- まとめ
二つの中国文明
黄河のほとりで生まれたのが仰韶文明で、長江のほとりに生まれたのが竜山文明です。中国と言えば広いですよね。なので、それぞれ気候が異なり、それに適した穀物を育てていました。
仰韶文明では中国の北のほうの気候に合ったアワやきびなどの雑穀を育てます。そして彩文土器という土器を使いました。
そして竜山文明は中国の南で米を栽培します。
土器は黒陶という黒い土器を使用しました。
仰韶文明は北で雑穀を栽培、彩文土器を使用
竜山文明は南で稲作、黒陶を使用と覚えておきましょう。
占いで統治 殷
中国文明の中で、生まれた邑という集団がをまとめてできたのが、殷という王朝です。殷の遺跡で有名なのは殷墟です。周は長く続く王朝で、前半を西周、後半を東周と呼びます。王の血縁に土地を与えて統治する封建制を実施したのが特徴です。
特徴は占いをして政治の方向性を決めるという政治をしました。占いは亀の甲羅に甲骨文字という文字を刻んで、火であぶるという感じでした。
滅亡の原因は最後の殷王は妃と贅沢三昧をして、政治をしなくなったからです。なので、後の周王が殷を滅ぼしました。
血縁で統治 周
殷を滅ぼして生まれたのは周です。血縁で統治する封建制で国をまとめます。 しかし異民族に攻撃されて、東へ遷都することになりました。
「異民族に負けて遷都するなんて情けない!」
と周の権威は下がり、諸侯たちは新しい覇者を決めるために争いを始めました。これが春秋戦国時代です。四百年ほど続く長い戦いのなかで諸子百家という思想家たちが現れたりもします。
諸子百家については詳しくはこちらで解説しています。
最後には春秋戦国時代の最終的な勝者の秦に滅ぼされ、長い歴史に幕を閉じます。
周についてもっと詳しく知りたい方はこちらがおすすめです。
徹底的な統治で短命に
春秋戦国時代を終わらせた秦には中国史上初といわれることがたくさんあります。それは
- 初めて中国全土を支配
- 初めて皇帝が誕生
- 中央集権的な強国ができる
- 文字や長さの単位、貨幣を統一
- 官僚制を実施
などです。ちなみに、初めての皇帝があの有名な始皇帝です。秦以降の王朝は独裁的な皇帝が広い中国を支配するというスタイルになります。
統治の方法は、郡県制という仕組みで治めました。郡県制というのは全国を郡に分けます。そして郡の中に県を置きます。すべての軍と県に役人を置いて、皇帝が直接指示します。図で表すとこんな感じです。
しかし強力な国を短期間で完成させた秦は、たった十五年で滅亡してしまいます。その主な原因は
- 厳しい法の統治
- 急激すぎる改革
の二つです。これらの不満を持った人々が反乱を起こします。その中で有名なのが項羽と劉邦が活躍する陳勝・呉広の乱です。
緩い統治から中央集権国家に 前漢
陳勝・呉広の乱で活躍した劉邦が、項羽との争いの末、漢という国を建てました。漢は一度滅ぼされた後に復興するので、前漢と後漢と分けられています。
前漢は周と秦の良い所を融合させた郡国制で統治します。どんな感じかというと、都周辺は秦のように官僚制で厳しく治め、地方は功績のある部下に緩く治めさせました。
秦のように厳しすぎず、かといって周のように緩すぎない国が目標でした。しかし、地方の支配者が好き勝手にし、最終的に中央集権国家になってしまいます。
前漢黄金期の武帝は、異民族と戦うために積極的に遠征しました。内政の面では儒学を官僚に学ばせたりします。
しかし、武帝死後は、宦官と外戚(皇后や皇后の親戚)が政治に口を出すようになります。そうして衰えた前漢は帝位を奪われてしまいます。
古臭い政治ですぐ滅亡 新
衰退した前漢から王莽が帝位を奪って生まれたのが新です。新は名前に反して古臭い政治をします。
それは、約千年前の周を理想とした政治です。千年前の政治なんて時代が変わりすぎて、うまくいくはずないですよね。なのですぐに赤眉の乱などの反乱が起きてしまいます。赤眉の乱というのは、反乱に参加する人たちが赤い眉にするというので印象的ですね。最終的にわずか十五年で滅亡します。
後漢
反乱の中、漢王朝の生き残り、劉秀が漢を復興します。ローマ帝国との東西交流をしたりします。製紙法を改良して、紙を実用化した王朝でも有名です。
後漢も前漢と同じように宦官と外戚が政治に口出しします。そして宮廷内で派閥闘争が起こって、どんどん後漢は衰退してしまいました。黄巾の乱などの乱が多発し、最終的に魏に帝位を譲ることになります。
三国志で有名 三国時代
後漢が滅ぶと、有力な三つの国が天下を取り合うようになりました。
その三国が魏、呉、蜀です。いろいろなゲームや漫画、映画などで有名な三国志ですね。
戦いの末、魏が勝ちますが、家臣の司馬炎に国を乗っ取られてしまいます。なので、最終的に勝ったのは司馬炎の作った晋です。
しかし、晋は、後継者争いですぐに滅亡します。
異民族の北と漢民族の南に分裂 魏晋南北朝
南では晋滅亡後、晋王朝一族の司馬睿が晋(東晋)を再興しました。貴族文化が花開いた東晋は、すぐ滅亡して
宋→斉→梁→陳
というようにコロコロと王朝が変わる分裂時代になります。
北には五つの異民族が次々と国を建てました。なので五胡十六国時代といいます。その中でも北魏という国は重要です。均田制や自分たちを漢民族に寄せる政策を実施します。
最終的に隋という国が長い分裂時代を終わらせます。
短期間で唐の礎を築く 隋
長い分裂時代を終わらせた隋はたった二代で終わりますが、後にも続く制度を多く実施した国です。
制度の例を挙げると
- 均田制
- 租庸調制
- 府兵制
- 科挙
があります。全て初代の文帝が実施しました。
しかし、二代目の煬帝は悪い意味で歴史に名前を残しています。黄河と長江を結ぶ大運河の建設です。
「中国の北と南を結んでより多くの人や物を効率的に運べるようにしよう」
という狙いで大事業は行われます。確かに狙い通りにはなりましたが、建設のため数百万人の農民が酷使され、死者も多く出ました。
さらに煬帝は三回の高句麗遠征のために、また、農民を働かせて運河を建設します。そうして挑んだ遠征は大失敗でした。
民衆の不満が溜まって反乱が起こり、最終的に王朝は滅びました。
国際的な大帝国 唐
唐は反乱で台頭した李淵が建国しました。唐は隋の均田制、租庸調制、府兵制の三点セットと科挙を取り入れた後継国家です。
官僚の組織、三省六部などを実施して、唐は東アジアの大帝国として君臨します。
しかし、唐の均田制、租庸調制、府兵制が崩れて、辺境を守る節度使が力を持つと、どんどん衰退しました。
やがて黄巣の乱が起こると唐は滅亡しました。
短期間の分裂 五代十国
唐が滅亡すると中国は七十年ほど分裂します。北には
という感じで王朝ができてはすぐ滅びました。
五つの王朝が入れ替わり、周辺には十余りの国ができたので五代十国時代と言われます。
五代十国時代に終止符を打ったのは宋という王朝です。
平和で自由 宋
宋という王朝は趙匡胤という人物によって建国されました。趙匡胤は最初に唐滅亡のきっかけとなった節度使を廃止しました。そして武よりも学問を重んじる文治主義の国にします。
学問を重視したので国の軍事力は低下しましたが、相変わらず北方から異民族が攻めてきました。宋がとったのは、北方民族に毎年大量の金品を渡す代わりに、宋に攻めてこないように約束させる策です。金で平和な世を買ったとも言えますね。
結果的に国は財政難になりますが、民衆にとっては平和で自由な国になりました。
そんな中、宋に大ピンチが訪れます。北方民族の国の金に皇帝一家が捕らえられたのです。この事件を靖康の変といいます。必死に逃げて生き残った高宗が南に宋(南宋)を建てます。
しばらくは宋は続きましたが、最終的に元に滅ぼされました。
中央アジアまで支配し東西交流が活発に モンゴル帝国(元)
モンゴル帝国は遊牧民のチンギス=ハンが建国し、周囲の国をどんどん支配します。強い軍隊と優秀な子や孫たちでさらに領土を広げていきます。
最大領土は中央アジアやロシアまで広がりました。
そして孫のフビライの時に中国風に元に名前を変えます。元といえば、鎌倉時代に日本にも攻めてきましたね。
モンゴル帝国(元)は残虐といわれることが多いですが、大帝国を作り東アジアとイスラーム、ヨーロッパを繋げました。
その結果、ユーラシア大陸内でたくさんの人や物が行き交います。例として、中国の火薬や『東方見聞録』で有名なマルコ=ポーロなどが挙げられます。
元末期に皇帝がチベット仏教を狂信をして、財政難になったことでお金を刷りまくりました。その結果経済が大混乱し、漢民族に紅巾の乱を起こされます。その中で元は滅亡しました。
管理的に統治 明
明は紅巾の乱で頭角を現した朱元璋によって建国されます。明の特徴は管理的な統治です。例として
などがあります。
明の最盛期は三代目の永楽帝です。宦官の鄭和(ていわ)に南海遠征を命じました。
永楽帝死後、明は北虜南倭という状況に悩まされました。簡単に言うと、北から異民族、南からは海賊の倭寇が襲ってくるということです。
北虜南倭を乗り越えた後、十四代目の万歴帝に仕える張居正が活躍しました。彼は税を銀で治めさせる一条鞭法を実施します。
一条鞭法についてはこちらの記事で詳しく説明しています。
滅亡のきっかけは、張居正死後に万歴帝が政治をしなくなって、官僚と宦官の対立が宮廷内で起きたことです。国は衰退し、李自成の乱が起き、李自成が都北京を占領しました。そして明は滅亡します。
長期間続く異民族の王朝 清
明の次に中国を支配する清は漢民族の王朝ではなく、女真族という異民族の国です。清は初代皇帝のヌルハチが、モンゴル高原で後金という王朝を建てたことから始まります。そして、二代目のホンタイジが清と改名しました。北京に向かい李自成を倒した後、都を北京とした明の後継王朝となります。
清は中国の伝統と女真族の伝統をうまく融合しました。
例えば、儒学や科挙を重んじる一方で、漢民族の男子に辮髪という女真族伝統の髪型を強要します。
清の最盛期は康熙帝、雍正帝、乾隆帝の三人です。優れた皇帝が三人も続くなんてすごいですね。
しかし、最盛期が終わると、ヨーロッパや日本などの列強に翻弄され、衰退していきます。焦った清は近代化を進めますが、失敗して、辛亥革命で清は滅亡しました。
まとめ
いかがだったでしょうか。今回は中国文明から清までをざっくりと解説していきました。あくまでも「ざっくり」なので、詳しい解説は随時追加されていくリンクでご確認ください。
最後までお読みいただきありがとうございます。