世界史が完璧 宗教改革 ルターとカルヴァンの改革
皆さんこんにちはルリアゲハです。世界史を勉強していると、出てくる宗教改革やルターとカルヴァン。
「宗教改革はどんな改革で、どんな経緯で始まり、結果何が起こったのか?」
「ルターとカルヴァンはどんなことを主張したのか」
と聞かれると、答えるのはなかなか難しいですね。確かに宗教改革は色々なことが起こったりするのでややこしいかもしれません。そして、
大丈夫です。この記事を読めば
について理解できます。
宗教改革
宗教改革は中世のキリスト教世界を否定する一連の流れのことです。
中世のキリスト教世界ではカトリックは絶大な支持を集めます。言うならば
「ローマ教皇の言うことは絶対!」
でした。そうした中で聖職売買(賄賂を贈って高位の聖職者にしてもらう)や聖職者の腐敗が横行します。その結果、宗教改革が起こりました。
ちなみに宗教改革とほぼ同時期に大航海時代やルネサンスが起こります。なので、大航海時代、ルネサンス、宗教改革はセットで出てきますね。大航海時代やルネサンスについて詳しく知りたい人はこちらです。
それぞれ
という感じで三つとも中世の社会を変えていきます。しかし、宗教改革は他の二つと違って戦争が起こるきっかけとなります。
始まる経緯
宗教改革が始まったきっかけはレオ10世の贖宥状(しょくゆうじょう)の販売です。贖宥状(≒免罪符)は簡単に言うと、買うと罪が赦されて、天国に行けるという物です。買うだけで罪が赦されるなんてあるわけないですよね。なので、この贖宥状が問題となります。
当時黒死病(ペスト)の大流行などにより多くの人は
「いつ死ぬのかわからないなあ。私は死んだら天国に行けるのだろうか…」
という死への不安を抱いていました。
そうした背景もあって、贖宥状(免罪符)は飛ぶように売れます。教会にはどんどんお金が入ってきます。
ここまでの話で
「確かに教会は嘘を言って儲けたけど、免罪符を買った人々は死への不安が軽減された。だからお互いウィンウィンだからいいんじゃないか?」
と疑問に思うかもしれません。
しかし、レオ10世が贖宥状(免罪符)を販売したのはサン・ピエトロ大聖堂を建てる資金集めをするためです。サン・ピエトロ大聖堂はバチカンにあり、建てるのに100年以上かかりました。莫大な建築費を集めるために、何も知らない信者から金を巻き上げたとも言えますね。なので、カトリック教会は批判されて、宗教改革が起こります。
聖書が一番 ドイツのルター
ドイツ(神聖ローマ帝国)のマルティン・ ルターは腐敗した教会を批判します。
当時ドイツ(神聖ローマ帝国)ではたくさんの贖宥状(免罪符)が売られていました。ドイツでは
皇帝の権力<教皇の権力
だったからです。教皇の権力が強かったので、他の地域より贖宥状(免罪符)が売りやすかったということですね。
そんな中、ルターは五十五か条の論題を発表して、教会が信者から金を巻き上げた贖宥状を批判します。さらに、『キリスト教の自由』も発表し、
- 信仰義認説(人は信仰によって義とされる)
- 聖書主義(聖書に書いてあることだけが正しい)
を主張します。聖書には「贖宥状を買えば罪が赦されて天国に行ける」なんて書いていませんでした。なので
「聖書に書いていないことをするカトリックは間違っている!」
ということですね。
ちなみに、ルターはヴィッテンベルクの人気神学教授でした。強い影響力があったので、瞬く間に
- 諸侯
- 市民
- 農民
に主張は広まります。ルターの主張を支持する人のことをルター派と言います。
皇帝と教皇の迫害
多くの人に支持されたルターですが、教皇にも批判が伝わって、破門にされてしまいました。破門は、カトリック教会にとって都合の悪い人を追い払う手段です。さらに悪いことに、神聖ローマ皇帝のカール5世からヴォルムス帝国議会に呼び出されます。
諸侯たちが集まる議会で、カール5世はルターに自説を撤回することを求めました。しかし、ルターは撤回するのを断ります。
なぜ、カール5世はカトリックの味方をしたのでしょうか。答えは神聖ローマ皇帝は教皇に皇帝の位を授かったからです。なので、立場的にカトリックを庇わなければいけませんでした。
迫害されても諸侯や各都市はルターを支持しました。特にザクセン選帝侯フリードリヒはルターを保護します。選帝侯というのは皇帝を選ぶ有力諸侯のことです。なぜザクセン選帝侯フリードリヒは、わざわざルターを庇ったのでしょうか。迫害されている人を庇うのはリスクがありますよね。その理由は
「俺、カール5世のこと大嫌い。だからあいつの嫌がることをしよう!」
です。
そうしてルターはザクセン選帝侯の城で保護されながら、新約聖書のドイツ語訳を完成させました。
翻訳された聖書は活版印刷で多くの人に読まれました。活版印刷はルネサンスでヨーロッパに広がったものの一つですね。
ルター派ムーブメント
ドイツではたくさんのルター派の人が社会に影響を与えていきます。ドイツ農民戦争や諸侯たちがルター派を公認させようとする流れですね。
まず起こったのがドイツ農民戦争です。ルター派のミュンツァーに中心に農民たちが、立ち上がります。要求したのは中世の支配体制廃止です。中世の支配体制というのは領主が農奴(農民)から搾取する体制ですね。
ルターは最初は農民たちの味方でしたが、最終的に諸侯に協力します。この結果ルターは農民と諸侯にどう思われたのでしょうか?答えは
農民 「ルターに裏切られた!ルター最低!」
諸侯 「ルターは俺たちの味方になってくれた。ルター最高!」
です。
こうして、ルターは諸侯の支持を得て、領邦教会制を始めます。
領邦教会制ではカトリック教会に代わって、諸侯がトップの教会ができました。
教皇の影響を受けないので、諸侯にとって都合のいい教会ですね。さらに、カトリック特有の修道院やミサも廃止しました。
ドイツのすぐそばまで迫ってましたね。オスマン帝国に対抗するため、ドイツではルター派が公認されます。今まで弾圧していたルター派の力で国をまとめようとしたのです。
そして、最大のピンチ第一次ウィーン包囲が訪れました。オスマン帝国はウィーンを包囲しましたが、撤退します。ドイツの危機が去ると、再びルター派を弾圧しました。もちろんルター派は
「都合が良すぎる!」
と怒りますよね。ルター派やカルヴァン派がプロテスタントと呼ばれるのは、抗議(プロテスト)したからです。
最終的には、アウクスブルクの和議で諸侯はカトリックかルター派か選べるようになります。しかし、カルヴァン派を選ぶことや、民衆の選択権はありませんでした。
神を絶対視 スイスのカルヴァン
ルターが宗教改革をしている間、スイスではツヴィングリが宗教改革をしていました。ツヴィングリの改革は失敗してしまいますが、カルヴァンの宗教改革につながっていきます。
そうして、神を絶対視するカルヴァンがスイスで立ち上がりました。カルヴァンはジュネーブで神権政治と呼ばれる政治、宗教的な改革を始めます。そして、『キリスト教綱要』という本でキリスト教のあるべき姿を主張しました。主張したのは
- 予定説
- 蓄財肯定
- 長老制
です。いったいどういう意味なのでしょうか。
予定説は
「天国に行けるかどうかは神によって最初から決まっている」
という説です。なので、免罪符を買ったりなどの行動は無駄ということですね。予定説を聞いた人々は
「自分が天国に行けるかはどうやったらわかるのだろう?」
と思ったでしょう。その疑問にカルヴァンはこう答えます。
「あなたに与えられた仕事を一生懸命しなさい。使命である仕事を頑張って、お金が貯まればあなたは天国に行ける人です。」
カルヴァンの教えでは蓄財を肯定します。
キリスト教ではお金を貯める=悪いイメージというのが常識でした。しかし、蓄財肯定のカルヴァンの教えは商人たちに受け入れられます。
もう一つカルヴァンは長老制という仕組みを主張します。長老制は今までの教会の
「上の言うことは絶対」
という風潮を改めるために行われました。図のように牧師と信者の中から選ばれた長老で教会を運営します。
広がるカルヴァン派
お金儲けを肯定したカルヴァンの考えはドイツだけでなく、イギリス(イングランド、スコットランド)、オランダ、フランスに広がります。カルヴァン派はそれぞれの地域で呼び名が付きました。代表的なものを紹介すると
フランス…ユグノー(蔑称)
オランダ…ゴイセン(蔑称)
です。彼らはそれぞれユグノー戦争、ピューリタン革命、オランダ独立戦争を起こします。
まとめ
いかがでしたでしょうか。今回は
について解説しました。
今回解説した宗教改革は、この後宗教戦争につながっていきます。宗教戦争を完璧に理解するためにも今回学習したことを覚えておきましょう。
最後まで読んでいただきありがとうございました。