(世界史)今日から説明できるローマ・カトリックとギリシャ正教の違い
皆さんこんにちはルリアゲハです。中世ヨーロッパで登場するキリスト教の宗派ローマ・カトリックとギリシャ正教。
ふたつは中世ヨーロッパの時に分裂してしまいます。
皆さんは二つの何が違うのかわかりますか。わからないと思った方も大丈夫です。
この記事を読めば
・ローマ・カトリックとギリシャ正教の違い
・なぜ分裂したか
・分裂までの流れ
が説明できるようになります。
ローマ・カトリックは普遍 ギリシャ正教は正統
ローマ・カトリックはより多くのひとに受け入れられるキリスト教に重きを置いています。言い換えると普遍的(みんなのキリスト教)といえます。
具体的には聖像(マリア像など)を拝んだりする視覚的な要素や、聖母マリアや聖人を信仰するといった多神教っぽい要素を取り入れています。
初期のキリスト教は偶像崇拝や、神以外のものを信仰するのは禁じられていました。しかしそれを緩くすることで、全く異なる宗教を信じる異民族にも信仰してもらいやすくなりました。
ギリシャ正教は初期のキリスト教の教えを遵守することに重きを置いています。わかりやすく言うと(正しいキリスト教)とも言えますね。
例えば、偶像崇拝を禁じるために聖像禁止令を出したりしました。
しかしのちには聖像禁止令は廃止され、イコンという宗教画が普及していきます。
分裂第一段階
ではどのようにして分裂していったか見てみましょう。
時代はローマ帝国末期、五本山という五つの有力な教会がありました。この時代には、コンスタンティヌス帝がミラノ勅令でキリスト教を公認しましたよね。五本山の中で特に有力だったのはローマ教会とコンスタンティノープル教会でした。この二つがのちにはそれぞれ、ローマカトリックとギリシャ正教になります。
しかし、394年にローマ帝国は東西に分裂します。コンスタンティノープル教会は東ローマ帝国と手を組みました。一方ローマ教会は西ローマ帝国と手を組み、少しずつお互いに独立していきます。
分裂第二段階
間もなく西ローマ帝国は滅亡してしまいます。ローマ教会は政治的な後ろ楯を失って、存続の危機を向かえました。まだこの時代はローマ教会には宗教的な権力しかなく、後ろ楯となる国が必要でした。しかも周囲には異民族のゲルマン人がたくさんいました。まさに大ピンチです。
それを乗り越えるために、聖像を使って言葉の通じないゲルマン人に布教していきました。
一方のビザンツ帝国(東ローマ帝国)では726年にビザンツ皇帝レオ3世が聖像禁止令を発布します。レオン3世ではありません。気をつけてくださいね。(レオン3世はカール大帝に戴冠した人です。)
この目的は本来のキリスト教の教えを守るためでしたが、もうひとつの目的がありました。それがイスラームから敵とみなされて攻撃されるのを防ぐためです。
ビザンツ帝国のすぐ近くにはイスラーム王朝がありました。イスラームは厳格な一神教で偶像崇拝を禁止しています。
禁止令はローマ教会にも求められました。しかし、ローマ教会はそれに反発します。そうしないと、ゲルマン人への布教に聖像を使えなくなるからです。やはり言葉で教えを説くよりも聖像を使った方が効果があったみたいです。
そして、二つの教会はローマカトリック教会とギリシャ正教会に完全に分裂しました。
まとめ
いかがでしたか。今回はローマカトリックとギリシャ正教について見ていきました。
もう一度確認すると、ギリシャ正教は正しいキリスト教、ローマカトリックはみんなのキリスト教です。
今回の内容を押さえて記述の書き方や世界史の流れをマスターしてくださいね。
最後まで読んでいただきありがとうございます。